競馬は未来を予知するギャンブルなのに、我々が手がかりにできる情報は過去にしかない。いつも答えは過去にある。ある筈なのだ。しかし、我々が過去のすべてを知ることは不可能だ。オレにとって今回のスウィフトカレントの2着はありえない理不尽な出来事にしか思えなかったのだが、それはきっとオレの知らない「過去」をスウィフトカレントが持っていたのだろう。
予知の手がかりたる過去の情報、しかし我々にはいつも情報が足りない。余計な情報はいっぱいあるのはまだいいのだが、あるべき情報が決定的に足りない場合も少なくない。というより多い。というかいつもそうだ。そんなときは、負けるべくして負ける。これは、ちょっと避けようがないように思える。
予想できた負けはある。それは予想の上での馬券選択の結果であって、呑みこみやすい負けだ。予想できない負け、予想しようもなかった負けもある。その負けを呑むのはしんどいことだ。しかし同じ条件で馬券を獲ったやつがいるという事実がいつもオレを打ちのめす。この事実の前に通用する言い訳が、この世に存在するとは思えない。
我々はいつも決定的に情報不足で、気づいたときには戦争は終わっている。しかしそれでも勝つやつはいる。上述したように、確かに答えは過去の中にある。しかしそれは、過去以外のところに答えがないという意味ではない。
今月に入って馬券を再開した途端に負け続けている理由が、今日はっきりと判ってオレは愕然としたのだ。オレは勝つということがどういうことなのか、すっかり忘れていた。それは実際に言葉にするとびっくりするほど単純なことで、賭けをしない人にはこいつバカじゃねえかと思われるような話だ。
「殺し」がないのだ。
ズバリ言って無職だった10年前、府中に通いつめていたオレは自分が買った穴馬を念力で無理矢理勝たせるぐらいのことはやっていた。うまくいかないこともあったが、うまくいくこともあった。勝つということは、なんとなく買った遊びの馬券が当たることではない。「当たる」馬券なんかオレは知らない。馬券は獲るものだ。ときには念力を使ってでも獲るものだ。決定的な情報不足は、決定的な「殺し」で踏み越えていくしかない。
競馬は遊びではない。少なくとも、府中に通っていた頃のオレがやっていた競馬は違う。オレは遊びの競馬を知らなかった。そして今、久しぶりに競馬をやってみるとおおなんということだ、オレが今やってる競馬は遊びだった。レジャーだった。年をとったのか、職を得て何かが変わったのか、判らない。再び「殺し」を手にすることができるかどうかも判らない。しかし仮にもう自分に「殺し」の競馬ができないのであれば、オレはこれからどう競馬と関わっていけばいいのか判らないんだ。ちょっとこれ考える必要があるなあ。