「シン・仮面ライダー」 感想未満のブツブツ

「ドキュメント「シン・仮面ライダー」 ヒーローアクション 挑戦の舞台裏」より

前回の感想記事を書いたあと、Twitterで「シン・仮面ライダー」について風呂の屁のようにブツブツ呟いてた断片をまとめます。なんだかブツブツ言いたくなる変な映画なんだよな、NHKのドキュメンタリーを観たらなおのこと。ほぼ自分のTwitterのコピペですが、文章は直してます。ネタバレとか、もうどうでもいいでしょう。

本編でどこぞの田舎道をライダーがバイクで走ってるのを見て、ホント申し訳ないんだけど1981年の「月光仮面 THE MOON MASK RIDER」を連想したねえ…


序盤の蜘蛛男の糸で身動きとれない場面が極めて形式的で、そもそも動こうとさえ全然してない。動こうとする芝居をさせてない(禁じてる)。なんやねんその演出。まあオレが池松壮亮なら(バカな仮定)、ここで監督と揉めに揉めて勝新ばりに降板ですよね。


ちなみにオレは無人の工場ロケを観ながら「なぜ無人なのだ、ハッそうか日曜日だから誰も来てないんだな」とか思っててマジで名探偵。


いきなり若い女性に「ところがギッチョン」と言わせてて、なんだかいたたまれない気分だった。


シンウルトラ、シンライダーへのうっすら反感のひとつとして、これらは現役のシリーズであり、毎週テレビで放送するためにスタッフが安い金で頑張り続けていて、しかしその流れとはまったく違う樋口組や庵野組の映画である、という構図がある。つまりお前らも泥水すすれやという反感(理不尽)。


オレは久しくテレビシリーズ観てないけど、継続して視聴してる人にはどう見えてるのかと思う。テレビのスタッフたちがコツコツ築いて今も延伸工事を続けている高速道路を、庵野組がスポーツカーでビューンと飛ばして走り去っていくのを呆然と見送っている、みたいな感覚はないのだろうか?


たとえば原典では走るサイクロンの前輪アップをスクリーンプロセスで撮ってるんだけど、そんなもん形だけマネしてんじゃねえブチ殺すぞと思うのだ(落ち着け)。本当に前輪をアップで猛スピードで撮れよと思う。


観客が庵野個人の「おこだわり」に忖度する義理はないし、ちょっと油断すると庵野の顔色を伺ってる自分にも腹が立つし、この構図を意図して作った庵野にも腹が立つ。まあでもライダーでまだよかった。タイガーマスクやられてたら事件性が出てくるところだった。


池松壮亮の本郷猛が無職だと聞いたので(庵野こだわりキモい)文房具の営業職なんかどうですかと思った(宮本から君へ)。あんな黒いコートはためかせてる無職がいるか。無職はTシャツジーパンや(実体験)。


あと本郷猛の絶望とやらもよく判らなくてな。立派なお父ちゃんやん?


そもそも庵野秀明はライダー休止期にとんねるずの「仮面ノリダー」がテレビを席巻していたことをどう思っていたのか。ナディア作っててそれどころじゃなかったか?


アマプラで松本人志としょうもない対談してたけど、あれがとんねるずだったら受けてなかったのではないか。


サイクロンてショッカーの支給品なのか? 冒頭崖から落っこちたサイクロンを谷底から拾ってきたのか? 塚本晋也の趣味なのか? 人間時代の池松壮亮は何に乗ってたのか? カブか?


池松がツーリング中に捕まって、バイクと一緒に改造されたのか? 改造人間と改造バイクのコンビなのか? 自炊道具はどこに積んでいたのか? ショッカーは自炊道具には手をつけなかったのか? なぜ? デタラメすぎじゃないか?


庵野や山賀らガイナックスの面々が40年前からやってた「アニメ業界は袋小路、縮小再生産だけのアニメは滅びる、しかし我々は馬小屋(大阪芸大)で生まれた選ばれし救世主。世界を! 革命する力をー!」みたいな選民思想ギミック、要するにUWFであって、若い頃には夢中になったこともある。しかしさすがに今ではギミックだと判る。みんながんばってるよ。


「庵野作品や庵野秀明本人のことが好きじゃないとキツい」 これが庵野と観客の異常な関係性で、オレの「庵野=DVヒモ野郎、観客=共依存の殴られ女」説の所以である。


バーホーベン知らなくてもロボコップは面白いやろ。庵野にはバーホーベンほどの実力がない。まあバーホーベンより実力あるやつなんてほぼいないんだけど…


先日NHKBSプレミアムで放送された、「シン・仮面ライダー」のドキュメンタリー。経験によって作り方が固定化してる映画の職人たちに、それ1回全部忘れて効率悪くても自主映画のように探り探り作ろうよという「異業種監督(懐かしい響き)」庵野秀明の話でそれ自体は悪くないんだけど、異業種だけにアクションや安全確保についてド素人だから地獄の現場になる、と…


ビデオにフィルム、大コケに大ヒットと実写いろいろ撮ってきていまだに異業種監督精神であり続けられるのは、純粋というか頑なというか、頑固というか偏屈というか…


時代と庵野ということで考えると、311のいいとこどり(不謹慎)ができたシンゴジはともかく、本当に人類が未知の脅威と対峙したコロナ禍の中では、シンウルトラマンとシンライダーには子供騙し感がどうしても出てしまうよな。国家(と、その有能さ)への謎の信頼は特にアホらしく(子供っぽく)見える。


本当の人類の危機にこの国の政府が何したかというと、アベノマスクとお肉券だからな。竹野内豊はお肉券を配る側の人間。庵野監督もスベらざるをえぬ。まあオレはシンゴジの時点で国家に尻尾振ってんじゃねえと少し文句言ってたけど…


pencroft.hatenablog.com


(以下、加筆)
シンゴジで国家が有能に描かれたのは、取材対象の民主党政権が有能だった(或いは有能っぽく答えた)だけじゃねえのか。シン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーは現実を取材してないから、誰の目にも子供の妄想に見える。いやマーしかし、ネタが変われば方法論も変わって当然ではあるのだけど。


ドキュメンタリーで段取りを闇雲に嫌う監督を見て、いにしえの「ハプニング芸術」なるアングラな言葉が脳裏をよぎった。別に詳しく知ってるわけじゃないが、銀座の路上なんかで予告なしに奇想天外なことをして、人々がビックリしたら成功、とか。猪木とシンの新宿伊勢丹前襲撃事件とか。うーん、映画とは食いあわせが悪い気がするのう。