時間SFとデジタル表現

また「時をかける少女」がらみのヨタ。映画冒頭や劇中の時間を飛ぶ場面で、流れる時間を赤いデジタル表示で示しているのが印象的だった。オレの昭和感覚ではこれは考えるまでもなくNG描写なのだが、そこで当たり前のように判りやすくデジタル表示を用いるところが、いかにも理知的な細田監督らしい部分だと思った。また、きょうびの若い人たちにはデジタルのほうがしっくりくるんだろうなとも思う。
皮肉にもオレが嫌いな大林版「時かけ」は理知的どころかベッタベタに情緒が支配するリリカルマッチョ映画だったので、そもそも「時間がデジタルで表現されうる」ということさえ隠蔽したがっていた。そういう描写を徹底して避け、チャカチャカ早送りやコマ撮り合成などのハッタリ的手法で時間移動を表現していた。オレも、手法としてはこれしかないだろうと思う。人知を超えた時間の流れの映像表現なんて、ハッタリ以外にどうすればいいのだろう。
細田版「時かけ」に感じた違和感は、時間SFでデジタル表示はおかしいだろ…常識的に考えて…という感覚だ。アラビア数字は勿論、12進法や60進法や10進法が混ざりあったデジタルによる時間表示は、人間による発明だ。ゾウの時間やネズミの時間には、また別の流れがある筈である。時間は人間がいようといまいと滔々と流れる大河であって、だから映像化された「時間の世界」が赤文字のデジタル表示というのは人間に都合のよすぎる話で、「おお人知を超えた時間の世界スゲーぜ!」と思いにくいという難点がある。
かといって、他に描くものもなかったんだろうなあと思う。それは真琴が理科準備室ではじめてタイムリープ能力を得る場面でも明らかだ。ゴッホのような筆使いで描かれた馬の大群や原始人の一団をすりぬけるカット、草原にゆっくり落ちてゆく真琴のカットなど、まあなんとなく言いたいことは判らんでもないけど別段「スゲーぜ」感はない。劇中のタイムリープがああいうものばかりではスカッとしないので、デジタル表示が帯のように流れ、時計の部品のような歯車が浮かぶ広大な白い空間を落ちてゆく(飛んでゆく)ふうにしたのだろう。あの手の表現なら、細田守デジモンやヴィトンのときに成果を出している。
バック・トゥ・ザ・フューチャー」では時間はタイムマシンにデジタルで入力・表示されるが、時間移動そのものは瞬時にして行なわれる。これは感覚的に納得できる描き方だ。しかもあの映画では「デロリアンがある速度に達する」ことが時間移動の条件になっていて、つまり映像的快感のピークが時間移動そのものではなくその前後、疾走するデロリアンと路上に記される炎の軌跡に置かれているのである。このあたりがロバート・ゼメキスの悪魔じみて狡猾なところで、ツッコミどころを回避できる最も有効な手法であると同時に爽快感も失っていない。もしかしてゼメキス天才なんじゃないか。
時間SFの名門「ドラえもん」では、タイムマシンで時間移動する場面がたびたび描かれてきた。描写方法は時代とともに変わっており、ずいぶん早い段階からCGを使っていたと思う。原作のタイムマシンは、ダリ式のぐにゃぐにゃ時計が浮かぶ空間を飛んでいた。あれにしても、ぐにぐにゃのデジタル時計が浮かんでたんでは画にならないと思うなあ。

時をかける少女 通常版 [DVD]

時をかける少女 通常版 [DVD]

時をかける少女 デジタル・リマスター版 [DVD]

時をかける少女 デジタル・リマスター版 [DVD]

バック・トゥ・ザ・フューチャー [DVD]

バック・トゥ・ザ・フューチャー [DVD]