「マイマイ新子と千年の魔法」に出会った!

新宿ピカデリーで「マイマイ新子と千年の魔法」を観た。翌日、もう一度観た。翌週も観た。
CinemaScapeに投稿したコメントを転載する*1。完全にネタバレだが、ええい構わねえ、公開する。
読んでも読まなくてもいいが、どうかこの映画を観に行ってほしい。


「こんな映画が観たい」との願望に応える映画ではなく。
「本当はこんな映画が観たかったんだ」と気づかせてくれる映画
(★5)

ここ20年で最高のアニメーション映画だと思う。

たとえば「となりのトトロ」というアニメーションも、昭和30年代を舞台にした作品だ。あの映画には様々な魅力的なモチーフが、これでもかと登場して観客の目を奪う。お化け屋敷のような家、森の中の巨木、トトロやネコバスといった物の怪。サツキとメイの世界はそれ自体が魅力的であり、それがそのまま映画の魅力に直結していた。

マイマイ新子と千年の魔法」は凄まじいリアリティーで昭和30年代の山口県を描いてはいるものの、「トトロ」のような胸躍る魅力的なモチーフはほとんど出てこない。新子が千年前の世界へ思いを馳せるきっかけとなるのは、麦畑の脇を通る水路が直角に曲がっているという事実だ。これはなんちゅうか…地味だ。実につまらない! 「トトロ」と違う!

我々観客にとって、「となりのトトロ」は冒頭からファンタジー映画なのだ。トトロが登場するより前から世界は美しく、驚きに満ちている。それは宮崎駿の作家性だ。しかし我々の日常は、もうちょっと地味にできている。もしかしたらご賛同いただけないかもしれないが、オレはそう思っている。

新子は直角に曲がって流れる水路から、千年前の「ここ」に思いを馳せる。これは地味な日常を生きる我々にも共有できる、小さな小さなファンタジーだ。新子の想像する千年前の世界も、普通に地味だ。夢と冒険の血湧き肉躍る異世界ではない。昭和30年代の世界がここにあるが如く、千年前の世界もただ「ここ」にある。今、おじいちゃんやおばあちゃんが畑仕事をするように、千年前の鍛冶屋は多々良を踏む。

「このなーんにもないような麦畑、ここには千年の秘密があるんよ」

東京からやってきた貴伊子とうち解けた新子は、千年前の世界の秘密を明かす。少女二人の間でのみ共有される、世界の裏側の秘密。斯様な展開にオレのようなおっさんはビンビンに興奮するのであるが、まあそれはそれとしまして、二人は千年前の世界で遊び友達のいないさびしいお姫様を発見する。考古学の発掘隊、学校のひづる先生に教えてもらった名前。さびしいお姫様は、二人の中でどんどん実在の人物になってゆく。大勢の友達と楽しく遊んでいるときも、さびしく一人遊びをする千年前のお姫様の姿がちらつくのだ。

千年前の世界、そのありようは新子たちの想像にすぎないのだろうか? それとも本当にあんな人々が千年前に実在したのだろうか? それを確かめる術はないだろう、考古学的に考えて… それは一から十まで、新子たちの想像通りだったかもしれない。全然違ったかもしれない。だけど千年前のお姫様が切り取った美しい色紙が、流れ流れて金魚になって新子たちのダム池にやってきた、ように見える。飛び跳ねる新子と貴伊子が大地を踏みしめる振動を、お姫様も感じている、ように思える。この映画が新子や貴伊子の物語である以上、想像して信じたものは確かにそこにある。新子や貴伊子にとって「ある」のなら、そうなのだ。それを「ウソやんけ」と言う権利は、神さまにも仏さまにもないんだよな。

映画は後半、思わぬ展開を見せる。それは友達のタツヨシの父が自殺してしまったことに端を発するのだが、新子は千年の魔法は終わったと思い、タツヨシとともにとんでもない行動に身を投じるのだ。貴伊子は反対に千年前の世界へ飛び、そこでひとりで、自分から行動する。

このへんの展開はオレの想像をまったく飛びこえていた。この映画のクライマックスとなった一夜はあまりにも特別で、まるで魔法そのものだ。映画の魔法がこの夜にかけられている、そうとしか思えなかった。柔らかい手で心を揺すられて、ちょっと記憶にないほど感動して涙がこぼれているのに、なんで感動しているのかちっとも判らないのだ。脚本や演出、アニメーション表現の素晴らしさも当然あろう、そのうえで、決定的なところでこの映画はウソじゃない、間違いじゃないという確信があるんだ。

この映画を3回観た時点でのオレの理解はこうだ。いつだって、子供にだって困難は襲いかかってくる。新子とタツヨシの闘いは、魔法を捨てたのではない。それは魔法をとりもどすための闘いだった。もちろん、大人は答えない。大人は子供の問いかけに答えたりしない。適当に丸めこんでお帰りいただく。では新子たちは負けたのかといえば、それも違うのだ、この闘いは決して無価値ではなく、ここでふりしぼった勇気と得た経験は、生涯自分を力づけてくれる類のものだ。もし何もしなかったとしたら、別れに際してタツヨシは笑えただろうか?

そして新子の闘い、その意味を裏づけるのが貴伊子の冒険ではないだろうか。新子が貴伊子の中に蒔いた種が、この夜に花を咲かせた。千年前のお姫様は、自分から動いて使用人の少女と友達になる。そこで演じる人形劇がやたら感動的なのは、生きる力をくれる空想の中でも、やはり空想こそが人に生きる力を与え、笑顔をもたらすものなんだ、という入れ子構造があるからかもしれぬ。さらに、昭和30年にも千年前にも、空想によって人生は美しく変えうるんだという普遍性に感動したのかもしれない。冒険を経た貴伊子は、何枚の写真を見てもどうしてもイメージできなかったお母さん、その存在を、子供の頃の写真一枚で理解する。

うわあ〜と叫びながら走り続ける新子とタツヨシ、アッハッハと使用人少女の妹たちを笑わせるお姫様。このカットバックの感動は、要するにそういうことだと思うのだ。

ここまでオレはひとりでもたくさんの人に『マイマイ新子と千年の魔法』を観てほしいと願って、なるべく映画の魅力が皆さんに伝わるような文章を書こうと思って書いてきたがもう諦めた。オレなんかの文章で、この映画の素晴らしさがちゃんと伝わるわけがねえんだ。どうせアレだろ、どうせおまえらポスターの絵とか見て「ハイハイ、名作劇場的な文科省推薦的なアレね」とか思ってんだろ。「いい話かもしれないけど、ちょっと地味ね」とか思ってんだろ! ふざけんなよ、この映画は日本映画史が、世界のアニメーション史がひっくりかえる大事件だぜ魔法だぜ。ろくに宣伝もされてないし上映館数も少ないけど、これが無惨にコケて忘れ去られるような世の中なら、オレは現代を生きてるのが、ちょっと恥ずかしい。そうまで思える特別な映画に出会えたことが、オレは嬉しい。オレは、本当に嬉しい。もし観てくださるならば、『マイマイ新子』がどうかあなたにとっても特別な映画になりますように。

マイマイ新子と千年の魔法 [DVD]

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*1:後半部分、書きなおしました