ジャッキー・チェンのアクション設計思想

先日、ジャッキー最後のアクション大作という触れ込みの「ライジング・ドラゴン」を観た。アジアの鷹シリーズらしく、激しいアクションこそあれど良くも悪くも映画としてはユルユル。このシリーズにはなぜか必ずある、点描スケッチに呑気な歌が流れるパートも健在で、あーやっぱりこういうのやるのね、アンタも好きネエと微笑ましかった。

世界にも類を見ないジャッキー・チェン固有のアクション映画に、世のジャッキー世代諸兄と同じくオレもたびたび驚嘆し、興奮に血沸き肉踊り、時に体が震えるような感動を味わってきた。しかし「ジャッキー映画が一般的アクション映画と何が違うのか」「ジャッキーの作家性がいかにジャッキー映画を特別なものにしているか」を明確に書いた評論を、不勉強にしてオレは読んだことがない。こういうことはもっとジャッキー映画に詳しいまともな人がきちんと書くべきだと思うのだけど、まー不肖わたくしめの思うところも少しばかり書いておいてもバチは当たらぬかと思った次第であります。思いつくままのいいかげんな殴り書きなので、ツッコミどころも多いかと思いますがご容赦を。

ジャッキー映画、特に「ヤングマスター」(1980)以降の近代ジャッキー映画におけるアクションの特殊性は、大雑把に言えば2つあると考えている。「観客のエモーションに寄り添う」ことと、「目的ではなく手段としてのアクション再定義」だ。


エモーションに関しては、CinemaScapeでニューポリこと「香港国際警察 NEW POLICE STORY」(2004)の感想として書いたことがある。以下、一部引用して済ませてしまうことにする。

ジャッキー・チェンのすぐれた作品においてはキャラクターの感情がアクションを生み、観客はアクションを通してキャラクターの感情を自分の目で見、それを自分のものとすることができる。キャラクターの感情と観客の感情が同じ軌跡を描いて頂点に達するとき、両者の頭上には栄冠が輝き、映画は突然絵空事であることをやめ、生きた体験となる。この「感情」とは、ヒッチコックが「エモーション」と呼んでいたものに言い換えてもいい。そうだ、ヒッチコックがもし存命なら、ジャッキー・チェンを絶賛したに違いない。ジャッキー・チェンは非常にすぐれた「エモーション」の使い手だからだ。

2人組のかっぱらいにまつわる場面から、もうそれが見てとれる。最初の出会いで、泥酔状態のチャン警部は簡単に突き倒される。財布を見て彼が警部と知ったかっぱらいはチャン警部を蹴りつける。チャン警部は一切抵抗しない。なぜなら彼はどうしても自分を許すことができずに自分を罰する方法を模索して酒に溺れている人間であり、かっぱらいに蹴られる程度の苦痛ならむしろ歓迎している節さえあるからだ。かっぱらいの蹴りを受けることがチャン警部の贖罪なのだ。

かっぱらいとの2度目の邂逅では、若者シウホンに叱咤激励されたチャン警部はなんとか1人を取り押さえてみせる。その手順こそ鮮やかだが、チャン警部の動きには切れがなく、警官としての自己を取り戻せていないことは明白だ。いかにも惰性で取り押さえた感じなのだ。この微妙なニュアンスを余すところなく表現してみせた活劇俳優ジャッキー・チェンの恐るべきポテンシャルには舌を巻くもののまあそれは置いといて、ここで示された重要な事は、いかにジャッキー演じるチャン警部といえども「やる気がなければだらしない」ということなのだ。

かつての同僚サムに会いに行く場面でも、チャン警部のだらしなさは描かれる。イキのいい若者シウホンがヤンチャ捜査を進めるも、ここでもチャン警部には覇気がない。ただ、大勢に痛めつけられるシウホンを助けるために隠れていた個室を飛び出すシーンには、チャン警部復活の兆しを匂わせている。

眠れる獅子眠りっぱなしかと思われたチャン警部が完全に目覚めるのは、元同僚サムの断末魔の告白を聞いたときだ。ここでチャン警部は逃げる犯人を追ってロープ1本でビルを滑り降り、全力疾走で犯人の自転車を追いかけ、しかし追跡の途中で巻きぞえを喰ったバスが暴走を始めるやいなや犯人には目もくれずにバスを止めようと奮闘する。この一連のシーンにおいて、はじめてジャッキーはチャン警部に全能力を発揮させる。その連続活劇の凄みたるや、まるで銀幕が炎を吹いているようだ。ここまで映画の中のアクションは、チャン警部の感情の軌跡にぴったり寄り添って描かれてきた。チャン警部が自傷行為を乗り越えて、犯人を追うための動機にスイッチが入った瞬間、息もつかせぬ連続アクションが爆発して観客の溜飲を下げるのだ。なんでもいいから派手なアクションを見せとけばいいんだろとばかりに量産される凡百のアクション映画とは、作り方が全然違う。

ほとんどのアクション映画においては、アクションは単なる見せ場に過ぎない。アクションの価値は、これすなわち見世物としての価値である。それはまったく間違っていないと思うし、それが凄い見世物であれば観客はハッピーだ。オレだってそれで全然文句はない。そのテの映画で好きなものもたくさんある。ジャッキーの映画だって、見世物アクション映画としてならほぼ全作が傑作といって差し支えない。しかし、特にすぐれたジャッキー映画を観るときにだけ感じるあの理屈を超えた血の滾り、映画の中のジャッキーと自分が一体になるあの至福とはいったい何なのか、これをつらつら考えるに「アクションに感情が宿っているか否か」の一点に尽きるのではないか、ということにオレは思いあたるのだ。

引用おしまい。2点目はもう少し技術的というか、アクションの設計思想のお話である。

「ヤングマスター」以前の古典ジャッキー映画、要するに古典的カンフー映画ですね、ここにおいてジャッキーはコメディ、修行による成長の概念、場と小道具の活用など数々の発明を導入してひとつの革命を起こしたものの、アクションの構造は基本的にはそれまでのショーブラ作品なんかと大差なかった。登場人物が格闘するのは、敵の殺傷が目的であるという大原則だ。つまりは古典的な決闘である。強い方が勝つ。ブルース・リーは、破格のリアリズムと高い精神性、有無を言わせぬ説得力でこの形式の傑作を作った偉人である。しかるにジャッキーは、80年代以降この殺伐とした形式を捨ててしまった。ジャッキーは登場人物固有の物語上の動機と目的を設定し、格闘やスタントそのものは目的のための手段と再定義したのだ。

「ヤングマスター」は出奔した兄を探す弟。「ドラゴンロード」(1982)はスポーツに興じ、或いは国宝の密輸を阻止せんとするボンボン。「プロジェクトA」(1984)は海賊退治の水上警察官。いずれも主人公の目的は、敵の殺傷でも復讐でもない。さらに場面によっても、主人公の目的は細かく変化してゆく。古典的な格闘を「目的のためのアクション」と再定義することは、映画に実に複雑かつ多彩な展開を生みだすこととなった。ジャッキーはアクション映画の可能性を劇的に広げてしまったのだ。

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御存知「ポリス・ストーリー 香港国際警察」(1985)のクライマックスは、ガラスだらけのデパートでの死闘である。ここでは悪党の秘書が持ちだした悪事の証拠が、ひとつのカバンに収められたことになっている。悪漢もジャッキーも互いの殺傷ではなく、このカバンを奪うことが目的なわけだ。ナーンダそんなことかと言うなかれ、この「争奪戦」という形式をこれほどのハイレベルな擬闘で濃密に描ける映画作家など、トーキー以後ほとんど存在しないのである。1階に落ちたカバンを敵が手にしたため、最上階のジャッキーはそれに追いつく必要に迫られる。ゆえに、ポールに飛びついて滑り落ちるという作品を代表する危険なスタント場面が生まれる。ジャッキー・チェンが映画史に残る作家だと思うのは、なにもオレがファンだから愛してポーポーとかジャッキーが体を張りすぎてボロ雑巾みたいになってるからという情緒的な理由ばかりではなく、彼がこういった映画的な発明を常に行なってきたからなのだ。

その上で、近代ジャッキー映画の中には極めて印象的で、後々まで心に残る場面の必殺のパターンが存在する。それは、せっかく設定した主人公と敵の目的の対立が、ある時ふいに無効になる、凪のような瞬間である。ジャッキーは好んでこういった展開を作るし、オレもこれが大好きなんだよなあ。

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たとえば「酔拳2」(1994)。国宝密輸団のアジトは製鉄所だ。そこに乗り込んだジャッキーは敵の手下と激しく格闘するのだが、その中でいろいろあって、戦っている相手の体に火がついて焼け死にそうになる場面がある。ジャッキーは思わず闘いを忘れ、その火を消しにかかる。その間に他の敵に蹴られたりもするのだが、それでも火を消そうとする。すると他の敵も、仲間の火を消そうとする。そこには一瞬、対立を超えた刹那の協力関係が生まれる。こんな瞬間を描ける映画作家が、世界にどれほどいるというのか。これこそが「敵の殺傷が目的ではない」ことが生む最良の場面のひとつだろう。こういった場面の存在は、ジャッキーの描く人物像には物語上の目的や思惑を上回る人間性がはっきり備わっていることを示している。

上記ニューポリ(2004)には、以下のような場面がある。レゴ売り場で決闘するジャッキーと中ボスの赤ジャンパーが、煙幕の中で警官隊に囲まれる。劣勢の赤ジャンパーは一度捨てた拳銃に手を伸ばし、煙幕に紛れて背後からジャッキーを狙う。それが見えていないジャッキーは警官隊に向かって叫ぶ、「撃つな、怪我人がいるんだ、救急車を呼べ」。それを聞いた赤ジャンパーは、ジャッキーを撃てないのだ。対立と闘争が人間の善性によって無効化される作劇、これも「一瞬の凪」の変奏と捉えることができるだろう。

勿論、このような試みが常にうまくいくとは限らない。失敗している作品も少なくないと思うし、しょーもないギャグに使われる場合も多い。たとえばジャッキー映画で女性が銃を手にすると、まーたいてい凪の瞬間になりますな。「ポリス・ストーリー 香港国際警察」では女秘書が震える手で危なっかしく拳銃を構えると、闘っていたジャッキーと悪漢は等しくビビってフリーズする。「プロジェクト・イーグル」(1991)では、女性が機関銃でホテルを掃射し、それまでの闘いを瞬時にリセットしてしまう。最新作「ライジング・ドラゴン」でも同じようなことをやったうえに、闘いの最中に発射されたRPGの弾頭がツタに絡まってブーラブラ、それを敵も味方も等しく見つめてアワワ、アワワとなる場面もある。こういうのは無声喜劇映画で育ったジャッキーならお手のものなのだろう、格闘という深刻なクローズ・アップの世界から、カメラを引いて客観的に珍妙な状況を見せる喜劇的効果としての「凪の一瞬」なのである。

以上のようなジャッキーのアクション設計は極めて独特で、世界的にも類を見ないたいへん個性的なものだ。このオッサンはいつも気安くニコニコしてるから、オレを含めてついついなんだか友だちみたいな親しみを覚えざるをえないのであるが、これどう考えてもノーベル賞クラスの天才の類いなのであります。先日オレが八つ当たり気味に罵倒したゴダールなんて比較にならぬほどの映画的才能に溢れている男なのだ。そんな男の、最後の大作が公開中なのである。だから皆さんちょうど連休中なんだから、「ライジング・ドラゴン」を観に映画館に行ってくださいね。そりゃまー確かにちょっとユルいんだけどね、なかなか楽しいですよ。ちゅうかジャッキーの新作やってんだぞ、四の五の言わずに行けよ! 民衆!