陰毛とワキパイパイとわたくし

あらゆる表現は規制されてはならぬとオレは思っているが、エロ表現に対する規制を訴える人は少なくない。しかしオレは、そんな規制には反対だーなどという当たり前のことを今ここで書きたいわけではない。

思えばオレが未成年だった昭和の時代、猥褻とは陰毛を露出することであるとされていた。陰毛が見えただの見えてないだのでしょっぴかれる出版関係者が時々いたと記憶している。平成になると篠山紀信が陰毛ありの写真集を発表し、これが摘発されなかったことから陰毛写真集が流行し、「ヘアヌード」なる珍妙な和製英語がまかり通るようになった。しかし昭和に地方都市で子供時代を過ごしたオレの感覚では、陰毛とはどこか滑稽な、間の抜けた、みっともない、野暮ったい愛嬌を感じさせるものだった。今に至るまで、陰毛それ自体に性的興奮を覚えた記憶はない。しかるにこの社会には、陰毛が見えたと言っては目を三角にして怒り狂う「立派な大人」が少なくないらしかった。どうも奴らにとっては陰毛こそがエロの象徴、極めて猥褻、観音様ありがたやな存在に思えているらしいのだ。奴ら自身が陰毛に狂おしいほど興奮するもんだから、年若き青少年ちゃんがインモーなんぞを目撃した日には性が乱れに乱れて少子化も解決しちゃうに決まっておる、と頑なに思い込んでいるらしい… ということをオレは知った。そして当時も今も、オレは全然そうは思っていないのだ。オレの見るところ、あれはただの毛だ。

昔からオレは不思議に思っていたんだ。エロを規制しようとする人は、なぜあんなにも無防備なのだろうか。これはエロい、教育に悪い、子供に見せられない! と主張することは、要するにこれがエロいと私は思っている、これが私を興奮させ背徳的にさせる、射精させるビチョ濡れにさせる、と主張することに他ならないと思うからだ。そんなこと、こっ恥ずかしくてオレなんかとても人前では言えねえ。美少女ちゃんの体操服姿だけがこの世で最も美しいなどとは口が裂けても言えねえ。連中には性癖を告白している自覚がないのだろうか。そこは都合悪いから考えないようにしているのだろうか。表現規制にお題目として「青少年のため」という正義めいたものが乗っかってるのもよくない。自分を正義と思いこめば、人は無防備になる。規制の理由を強弁するほど、自分の性的嗜好を衆目に晒してしまう。

このことを、漫画家の相原コージ先生・竹熊健太郎先生は早くから指摘しておられた。「サルでも描けるまんが教室」の第何版かに収録されたおまけ漫画「条例ができるまで」である。
https://note.mu/kojiaihara/n/n5b9341167623
この漫画で断固「ワキパイパイ」の表現を禁じようとする立派なジジイは、オレにとって忘れがたいキャラクターだ。いったい、どのように心を病めば人はワキパイパイ撲滅派になってしまうのだろうか。同情を禁じ得ない。

表現規制は社会にとっての害悪でしかなく、規制を主張する方々は困ったちゃんだなーとオレが思っているのは本当だ。しかしその一方でエロ規制派の方々のこのような無邪気さ無防備さ無自覚さを、どこか味わい深いというか、少しだけ微笑ましく思うような気分が自分の中に生じつつあるのをここ数年感じている。自分の尻尾を追っかけてぐるぐる回っているアホな犬を可愛らしいと思うような心持ちをちょっとだけ感じている。もちろんオレは昔も今も、エロ規制は世の中を悪くすると思っている。たかが陰毛ぐらいでビンビンに興奮していちいちカウパー垂れ流さないでくれと心から思っている。しかしそれでも、躍起になってワキパイパイを禁止しようとする連中も含めての「社会」ではあるんだよな。この頃は、そんな気分なんだ。