「すずめの戸締まり」 フィクションと現実、そしてクイズ

出崎アニメみたいな坂道レイアウト

新海誠先生の最新作、「すずめの戸締まり」を観てきたよ。わけあって2回観ました。以下、CinemaScapeに投稿したクソ長いネタバレ感想。ネタバレ度が高いので、まだ映画を観てない人は絶対に読まないでください。いっそ映画を観た人も読まなくていいです。とんでもなく的はずれなことをあれこれ書き連ねてしまったのかもしれないが、書いてるうちにもう何がなんだか自分でもわけが判らなくなってしまった。前半はヨタ話、後半が映画本編の感想となっております。だいたいその筈です。あ、新海先生の小説版は読んでません。そのうち読むと思います。

甘いなぐさめ など今は  ★3


「すずめの戸締まり」(2022)は、新海先生のフィルモグラフィーの中でひときわ輝くスーパー問題作「星を追う子ども」(2011)の雪辱戦だ。特報映像の変な猫を見て、間違いないと思った。今作のキャッチコピーであり本編でも象徴的に使われる「行ってきます」という台詞は、「星を追う子ども」の結末におけるヒロインの台詞だ。「星を追う子ども」は帰ってきた。まさにハローグッバイアンドハロー。「星を追う子ども」に倣って「すずめ」でも、先生十八番のモノローグによるナレーションは禁じ手となっている。今ならうまくやれるという自信も勿論あるのだろうが、凄まじい胆力である。ちなみに過去作品に対してより踏み込んだ形の「やりなおし」を頻繁にやる映画作家といえば宮崎駿がいる。


それにしても先生まーた巫女さんの話ですか、とは思うのだ。「彼女の猫」「秒速」「言の葉」以外は巫女さんの話ばかりだ。信州生まれファルコム育ち、かわいいヒロインだいたい巫女さん。どんだけ巫女さん好きやねん。神秘と繋がり祈りを捧げて自己犠牲も厭わない、みたいなイメージがよろしいんでしょうな。しかしオレの好みは巫女さんじゃない作品の方であることに、今回ようやく気づいた次第。


観る前から懸念していたのだが、新海先生は疲弊している。「君の名は。」(2016)から3年1本ペースで長編大作を作ってるからなのか、イマジネーションが尽きかけているように感じる。今作では既視感のあるイメージばかりが立て続けに出てきてちと辛い。たとえばキービジュアルを見て、「ドラえもん」のどこでもドアを連想しない日本人がいるだろうか。藤子・F・不二雄先生は偉大すぎる。映画を観ながら連想したのは「帝都物語」や「もののけ姫」あたり。根本は民俗学だ。そして終盤には誰もが報道映像で見たことのある、現実の被災地の風景がたくさん出てくる。終盤の展開から「ハウルの動く城」を連想する人もいるようだ。


星を追う子ども」は別にして、オレが「すずめ」がお手本にしたに違いないと確信した元ネタ映画は、自分でも意外なのだが東映動画の「わんぱく王子の大蛇退治」(1963)だ。お話は日本神話の脚色だ。この国を作ったイザナギイザナミの間に生まれた腕白な少年スサノオは母イザナミに愛される幸せな日々を送っていたが、あるとき母は亡くなってしまう。母はどこへ行ってしまったのかと父イザナギに問うと、母は海の向こうにある美しく幸せな国へ行ったと言う。死を知らぬ幼いスサノオは父の説明を言葉通りに受けとって、母に再び会うために舟を出し黄泉の国へ旅立つ。


「わんぱく王子」は神話の脚色なので、スサノオの旅は行き当たりばったりで散漫な印象だ。そこでまずスサノオをすずめに女体化、旅のお供の兎をイケメン改め人間椅子にする。母の死を心の奥底では受け入れられていないすずめが幼い日の記憶の真相を知り、母を悼み傷を癒やし好きな人を取り戻して胸のエンジンに火をつけることがこの旅の意味でありテーマであることを、旅の終わりにすずめ自身が発見するという流れにアレンジすれば「すずめの戸締まり」の構造になる。アレンジごっついのう。だが「わんぱく王子」に登場する八岐之大蛇と「すずめ」に登場するミミズに共通する三次元空中戦、とりわけ常世の闘いののちその亡骸が美しい山河に変化する描写なんかそっくりで、少なくとも参照先のひとつなのは間違いないと思う。「すずめ」を観て気に入った皆さんには、是非「わんぱく王子」も観ていただけたらなーと思う。間違っても永井豪先生のハードコアマンガ「凄ノ王」を参照してはいけません(あのマンガも凄いけど)。


話戻って過去作「星を追う子ども」は、亡くなったイザナミを求めてイザナギが黄泉の国へ行くという古事記に記された神話がモデルになっていた。原典の神話ではその後なんだかんだあって、黄泉の国から戻ってきたイザナギが禊を行なった際にアマテラスやスサノオら神の子たちが生まれる。つまりスサノオは「自分が生まれた時すでに亡くなっていた母」を求めて旅立つのだ。ここの部分を「わんぱく王子」は改変しており、スサノオは生前の母に可愛がられており母を慕っている。「すずめ」の土台に神話を脚色した「わんぱく王子」があるとオレが思った理由がこれだ。


バッカそんなのお前の思い込みだよ、そんな大昔の映画なんか関係ないよと誰に言われても、新海先生に否定されたって全然構わない。オレが映画を観てそう思ったということが、オレにとって重要だからだ。以前オレが唱えたものの誰ひとり賛同しなかった、「天気の子」が痴漢逃亡ニュースの影響あり説と同じことだ(「天気の子」コメント参照)。でもねえ奥さん、岩戸鈴芽という名前は「わんぱく王子」にも登場するアメノウズメの岩戸神楽から来てるんですってよ(しつこい)。


イケメン閉じ師の一族は「帝都物語」の土御門家(天皇に仕える陰陽師一門)みたいなもんだが、専業では食えないうえに深刻な人材不足。親方日の丸で安泰とはいかないのが世知辛い。イケメンは教師になっても閉じ師を続ける気でいるが、休日ゼロの低賃金長時間労働で兼業はとても無理だろうな。


現世では巨木のようだったミミズが常世では活動的で、化け猫サダイジンと組んずほぐれつ格闘するが、その勝敗は重要ではなく背景にすぎないという処理は「太陽の王子 ホルスの大冒険」の岩男と氷マンモスの闘いを、横倒しの船腹に立つ2人は「もののけ姫」でシシ神の首を返す2人を彷彿とさせる。


そしてイケメンの白衣を羽織ったすずめが幼い自分と出会う場面なんか、「ドラえもん」で戦時中の野比のび助疎開先に行く「白ゆりのような女の子」(てんとう虫コミックス版第3巻)ですよね! ですよね! などと飲み屋で盛り上がること必至。まあこんな解説にもならんヨタは無限に出てきますが、いいかげんそろそろ映画の感想を(ヨタが長え)。


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正直言って、近年の新海ディザスター三部作の中では最も不満を感じた… むしろ最も当惑させられた作品だった。やはり「君の名は。」は娯楽映画としてズバ抜けて面白かった。脚本に駆動力と緩急があって、キャラクターにも魅力があった。比べて今作は前述したように借りもののイメージが多く、テンポよく展開する一方で変なダラダラ感もあり、何よりキャラクターが弱いと感じた。あと、猫がキュウべえみたいなヒールと思わせて実はベビーなんだけど、ミスリードのためとはいえ悪そうにしすぎやろ。「ひとがいっぱいしぬよお」、ニヤニヤ。ありゃ相当なワルオだぜ。


イヤまー尤も、これらは新海先生が国民的エンタメアニメ作家にのし上がった現在だからこそ感じる贅沢な不満であって、あの恐るべき「星を追う子ども」の雪辱戦としては大勝利、大戦果、錦を飾る凱旋興行であって、新海先生よくぞここまで立派にならはって、と絶賛に値する仕上がりであるのも一方の真実だからややこしい。特にそう感じた場面は神戸のスナックだ。昔の新海先生ならこんなダサダサ空間、絶対に描かないばかりか脚本にさえ登場させなかった筈だ。自分が好きなもの、ステキなものだけで画面を埋めようと躍起になっていただろう。それを大人たちの奇妙な生態をはじめて見て呆れるJKという目線ひとつ入れることで、ちょっとしたおもしろ場面に仕立てている。この余裕この成熟、新海先生と同学年のわたくしも見習わにゃーいけん。全日本スナック連盟の玉袋筋太郎会長もお喜びでしょう。


また、常世は死者の世界と言いつつ結局亡き母は登場しない。幼いすずめに語りかけた女性は現在の成長したすずめだった。生者を救うのは生者で、自分を救うのは自分自身だった。これは死者への妄執にとりつかれたおっさんについてゆく「星を追う子ども」に対する、最良の回答であろう。共通するキーワード「行ってきます」の値打ちが、まるで違ってくる。そしておそらく2019年「天気の子」の公開前日に起こった忌まわしき京アニ放火殺人事件や、その翌年に始まり未だ収束しない疫病の時代は、「すずめ」の構想と脚本に小さくない影響を与えただろうと思う。すずめちゃんには、いい看護師になってほしい(低賃金長時間労働だけど…)。


今作は東日本大震災(以下311)という現実の震災を扱っている。かつて傷ついた神戸も出てくる。オレなんか(新海先生もだが)311の時すでにおっさんで、今もおっさんなもんだからついこの間という感覚だけど、幼き日に311と出くわした若者にとっては全然違うよな。それは判る。全国民的アニメ大作でもう一度我々を311と向かい合わせる、それも判る。


しかしオレは「君の名は。」や「天気の子」がそうだったように、現実の災害を架空のフィクションを通過させて描く作品の方が好きだ。現実を想像力で捉え直した映画の方が好きだ。その方がより現実を捕獲(captured)しうるのだと、フィクションにはそういう力があるのだと信じこんでいる。そっちの方が高級なんだと思っている。


たとえば本多猪四郎の「ゴジラ」(1954)には、ガイガーカウンターを子供に向けるとバリバリ鳴るというもの凄い場面がある。戦争にも原爆にも責任のない無垢な子供に、ガイガーカウンターを向けるとバリバリ鳴る。それを見せる。オレは、これこそがフィクションで現実を捕まえること、想像力の弾丸で現実を撃つということだと思う。言いたかないけど庵野秀明の「シン・ゴジラ」(2016)の結末では、凍結したゴジラが東京に居座っててどうしようもない。我々が日常にかまけて忘れてしまいがちな厳しい現実を、空想の映像で喉元に突きつけてくる。新海先生の「君の名は。」だって、架空の災害から人々を救うために奔走する架空の若者を描いて絶大な共感を呼んだのだ。それはフィクションの力だ。


君の名は。」「天気の子」を経て311そのものを描く映画を作ることは、新海先生にとっては前進であり成長であり、意義のある挑戦なのだ。だが上記の考えを持つオレにとっては、その困難さの一部は想像できても、素直に前進とは思えなかった。


そりゃあ「すずめ」に出てくるトビラだってミミズだってオケラだってフィクションであり(オケラ出てない)、災害を防ぐために奔走する若者の話ではある。しかしその先に現実の311を提示されると、我々は311とその後に何が起こったかを思い出さざるを得ぬ。つまり原発事故だ。この映画でも、わずかながら触れている。帰宅困難区域の看板。丘からの遠景で画面の端に見える福島第一原発。「ここが? きれい…?」という会話。除染土の黒いフレコンパック。それらの搬出のためか、対向車はトラックばかり。しかしハッキリ言ってどれもチラ見せにすぎず、一応触れておきましたというアリバイ以上のものにはオレは感じられなかった。これらさりげない原発の描写を初見で見抜く人は、何割ぐらいいるのだろう。被災地の現状をよく知る人なら、すぐ判るだろう。恥ずかしながら、オレにはよく判らなかった。いやでもそんな、完全に原発知らぬフリの筈がないやろと思って2回目を観に行ってやっと判った。しかし、判ったからどうなんだという気もしてる。


原発事故をなかったことにしてはダメだと思う。しかしこのようにハンチクに触れてやり過ごすことで、映画がどれほどマシになるのか、そもそもマシになったのかという疑念は拭えなかった。現実の311を物語のド真ん中に置きながら現実の度し難さを描くことに、腰が引けてはいないだろうか。長州力に「またぐなよ」とカマされてまたげない大仁田厚の如き状態に、この映画が陥ってはいないだろうか。


じゃあどうすりゃええねんと自問しても、オレにはまるで判らない。幼いすずめちゃんにガイガーカウンター向けてバリバリやれやとは思わない(若い頃なら思ってたな)。それは創作者が考えることであって、ノーアイデアのバカ観客であるわたくしは金を払って観た映画の感想を書くだけだ。創作者は、だから偉いのだ。現実の311を娯楽映画の主題に据えたこの作品のド根性は、確かに凄まじい。困難な挑戦なのだろう。悩み続け、考え抜いて作られたことに疑う余地はない。観客は2時間映画を観て感想を言うだけだが、この映画は3年近くを費やして作られている。何も考えずに何もしてないやつが、メチャクチャ考えてメチャクチャ頑張ったやつに、浅はかな文句を投げることができちゃうのが映画感想の罪深さだ。こんなのろくでなしのやることだと、たまに思うよ。「星を追う子ども」のオレの感想なんか、本当に酷いよ。


それでも観客にとっては、銀幕に観たものと観て感じたことが映画のすべてなんだ。だからまたしても文句を投げちゃうんだけど、御茶ノ水の駅前でカーナビに入力した目的地をわざとらしく観客に隠して、いったいどこへ向かってるんでしょーか、サーみんなで考えよう! と観客の鼻面にエサとしてぶら下げたのが311の被災地って、せ、先生それは、ちょっとボカーなんちゅうか本中華、いくらなんでも受け入れ難かったです。行き先の謎に興味津々、判ってびっくりサプライズ、とは思えません。この映画でオレが心底ビビりあがったのはミミズでも地震でもなく、実はこの突然クイズだった。このクイズをオレは全然楽しめねえぞ、ということは記しておきたい。


クイズが出題されてしまったために、旅の面々は目的地(宮城か岩手か)はおろか311や震災、被災地や原発などのNGワードを避けながら会話せざるを得ず、腫れものに触るような居心地の悪いシンキングタイムが続く。原発チラ見せはこの時間の中に配置され、あろうことかクイズのヒントとして機能してしまう。このクイズ、そもそも必要でしたかね。本当にこの映画でやるべきことだったのだろうか。いつか「すずめ」がテレビの地上波で放送された日にゃ、CM入りの提供画面のサイドテロップに「すずめの行き先はどこ? リモコンのdボタンを押して答えよう! 抽選で常世にご招待!」とかなんとか出ちゃうんじゃないかと、半分本気で心配になるのだ。


長々とろくでもないことを書いたのでもう終わりますが、それでも「すずめの戸締まり」が駄作だとはまったく思わない、これも本心だ。この映画を必要としてる人、この映画と出会うべき人、この映画に救われる人は、きっと大勢いる。新海先生のディザスター三部作は、総じて祈りの映画だった。とりわけ「すずめ」は慰めの映画、励ましの映画だと思う。しかしそれゆえにわたくしの中の時代の気分とは無視できぬズレがあった、それだけのことだ。

甘いなぐさめなど今は 背中にしみる筈もない
苦い涙がこぼれたら 気づかぬ振りをしてやるだけさ

テレビアニメ「あしたのジョー2」(1980~1981)ED曲、「果てしなき闇の彼方に」(作詞作曲・荒木一郎)より引用。今はそんな気分なもんで、これにて失礼いたします。