「あしながおじさん」問題

先日読んだ「あしながおじさん」、一般に名作とされる作品であるがどうにも納得がいかんのだ。

あしながおじさん (岩波少年文庫)

あしながおじさん (岩波少年文庫)

あしながおじさん」は、孤児の少女ジュディが正体不明の援助者であるあしながおじさんへ向けて書く手紙で構成されている。いわゆる書簡体小説だ。物語の終盤では援助してくれたあしながおじさんと愛するジャービスさんが同一人物と知ってアラマーあなただったのネー、メッチャ愛してるワー即座に結婚シマショーとめでたしめでたしとなるのであるが、わたくしこの展開は非常に納得がいかんのである。

小説内では、孤児院の評議員(スポンサーの一人)であるところのあしながおじさんがジュディの作文を読んで面白がり、正体を隠して援助したことになっている。しかしこれは孤児院のリベット院長によって語られたことであって、実際にあしながおじさんが援助を「作文だけで判断した」のかどうかは巧妙にボカされている。

安くない金額の援助をする以上、おじさんはジュディやその他の孤児たちをひっそり「見ていた」であろうとオレは考える。そして少なからず気に入ったジュディを援助対象に選んだのであろうと確信する。

要するに、オレはあしながおじさんジャービス氏)に対して「お前、たいがいアレだよな」と思っているのだ。援助それ自体は善行ですよ。しかしその善行を行なうにあたり、あしながおじさんの心が真っ白だったとは到底思えないのである。悪く言えば、階級の違いや貧富の差が大きかった時代において金にまかせて少女の将来を買い、いいようにしとる資本家にしか思えないのだ。少なくとも、男女間の圧倒的格差を背景にしたこの恋愛にオレはどこか「真っ当ではない」匂いを嗅ぎとってしまう。そして、それ故に興奮するのだ。オレも資本家になりたい!

もちろん「あしながおじさん」はそういう小説ではないし、基本的にあしながおじさんは善意の人である。しかしジュディが男友達のジミーの家で休暇を過ごそうとした途端にそれを全力で阻止するあたりで、ニコニコした善意の向こう側にあるおじさんの本音、欲望がギラリと垣間見えた気がしたのだ。いやあ、お前もたいがいアレだよな!

女性作家であるウェブスターの「あしながおじさん」は、これが書かれた100年前には相当な先進思想を持つ物語だったのだろう。聡明な女性がその才能を発揮して自立しようとする物語だ。ずいぶんハイカラなお話である。

しかし同時に、「あしながおじさん」には時代の限界も見てとれる。ジュディはおじさんの援助なしでは自分の運命を変えられない。さらには、ハッピーエンドとして提示されるのは資本家との結婚だ。まあ結婚それ自体はめでたいからいいんだけど、これは自立とは程遠いように思える。フェミニズムを謳ってきた物語が、古き少女マンガの白馬の王子さま的な終わり方をするのである。このあたり、ずいぶんヘンテコな小説だと思ったな。

ハウス世界名作劇場のアニメーション「私のあしながおじさん」では、このへんの違和感をどう処理しているのだろうか。これは観る必要があるなあ。でも40話もあるんだよなあ…

私のあしながおじさん(1) [DVD]

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