「グミ・チョコレート・パイン パイン編」

グミ・チョコレート・パイン パイン編

グミ・チョコレート・パイン パイン編

大槻ケンヂ畢生の大河オナニー小説も、最終的には主人公が成功への階段をのぼる立身出世物語に落ち着いてしまった。オナニー小説が二束三文の青春小説に堕落するさまを見せられたということだ。大槻ケンヂはなんだかんだ言いながらも大林宣彦が好きだからそれでいいのかもしれないが、大林嫌いのオレからすれば主人公が映画を撮り始めるあたりで完全に白けてしまった。主人公が選んだそれが「映画」ならば様々な思いを美化できるという安易な考えかた、それ今すぐ捨てろ! バンドの詞が書けないやつは、脚本だって書けやしない。
どこで間違ったかは明白だ。山口美甘子ブルマーにだけは、手をつけてはいけなかったんだよ。鉄の意志で身を削り幻想を守るべきだったんだ。美しい生き様とはそういうものだ。
この小説は、東京以外に住む読者にはどう受け取られるのだろうか。主人公は確かにボンクラだが、10代を東京で生きるということはそれだけですでに特権である。大半の日本人にとっては渋谷もライブハウスも遠い存在だ。パイン編の主人公はアイドルの少年に会ったり、有名な映画監督のマンションを訪ねたり、はっきり言っていい気なもんである。四国にアイドルなんかいなかったよ! 有名な映画監督なんかいなかったよ! オレは地方で怨念を溜めに溜めて血走った目で上京してきた人間なので、10代の頃にこれほどの世界が目の前に広がっている・・・いや広がっていなくとも、とにかく「それ」が「そこにある」というのは随分甘い世界だなという印象を拭えない。東京で青春を過ごした大槻ケンヂはそうは思っていないのであろうが。
完全に「パイン編」の話からは離れてしまうが、オレは最近東京と地方(イヤな言葉だ)の温度差というものをよく考える。地方は非常に冷淡な目で東京のバカ騒ぎを眺めているのに違いない。恥ずかしげもなく「表参道は感性が磨かれる街」なんて言ってるやつは、地方の人々に笑われているとは夢にも思っていまい。表参道や代官山、六本木あたりにはその手の恥ずかしい連中がウジャウジャいる。東京の人間は「地方の人間は東京に憧れている」と無条件に信じているところがあって、そこがホントに恥ずかしいところなのだ。憧れてるのはお前なんだよ。東京なんかに憧れているのは、東京の人間だけだ。