「桜庭和志vs秋山成勲」妄想(一応これで最後)

桜庭和志vs秋山成勲の騒動は一応の解決を見たようだが、ヌルヌルの100倍深刻なストップ遅い問題はスルーされてしまった。まあそれはそれとして、今回のヌルヌルがこれほど大きい騒動になったのは、桜庭の生き方と秋山の生き方がまるっきり対照的であったことが原因のひとつではないかと思う。

そもそも桜庭はプロレスラーだった。プロレスは観客の木戸銭で成り立っている世界だ。観客の存在なしにはプロレスラーという「見られる」商売は成り立たない。ガチンコと言い難い試合も普通にこなしてきたし、サソリ固めを好んで使っていた時期もある。常に観客の目の前で試合を行ない、移り気な観客の期待に応え、観客から支えられる「プロ」として生きてきた。

今回は桜庭の抗議を引き金に、多くの観客がヒートした。この桜庭に対する我々の絶大なる信頼は、桜庭がデビューして以来観客との間に築き上げてきた磐石の関係に基づいている。

秋山はもともとアマチュアの柔道家だ。在日韓国人である秋山は、日本柔道→韓国柔道→帰化して日本柔道という曲がりくねった道のりを通ってきた。彼の出自や柔道界での成り行きについて詳しく知らないのだが、まあおそらくは随分な苦労があった人生ではないかと思われる。たぶん味方より敵のほうが多い人生だったのではないだろうか。

ここから先はオレの妄想だが、結果を出すことでしか浮かび上がれない秋山は、勝利のためにあらゆる手を尽くすようになったのではないだろうか。当然、そこに「ファンを裏切れない」などという概念はなかったと思われる。柔道は木戸銭で成り立っているジャンルではない。極論すれば観客なんかいらないのだ。たとえば大学受験でカンニングをする時、いったい誰が「オレのファンを裏切れない」と思うだろうか。孤独なる受験生にファンなど存在しないのだ。自分の良心さえ捻じ伏せれば、あとは試験官にバレるかバレないか、それだけの単純な二元論の世界だ。それが、秋山にとってのアマチュア柔道の世界だったんじゃなかろうか。勝たなければならない、勝てない自分など価値ゼロなのだ、秋山はそう思って生きてきたのではないだろうか。

そんな2人がHERO’SDynamite!!か)というプロ格闘技のリングで出会ったのは、なんともしれん数奇な運命だなあと思う。今回、秋山のヌルヌルは故意ではなくルールの認識不足による過失との裁定が下った。しかしオレはこう思うんだ、秋山はルールを認識していなかったのではなく、自分が飛び込んだ「プロ」という世界のことがちゃんと理解できていなかったのではないか。観客に支持されることがプロの「成功」であるならば、秋山はアマ同様に「勝つ」という手段でしか「成功」を手に入れることはできないと思いこんでいたのではないか。オレにとっての秋山の「罪」とはそれだ。これは幼少の頃からプロレスばかり観てきたスーパーエリートであるオレ様ちゃんからすると、いかにも幼稚な感覚だ。しかし誰よりも判りやすく「成功」を渇望してきたであろう秋山の苦労多き人生を考えると、そうなっちゃうのも仕方ないのかもしれん、と思う。
ファンに愛されている「幸福なプロ」桜庭は、任天堂DSがあればそれだけでゴキゲンという経済的な男。対する「不幸なアマチュア」秋山は、ザギンでモンタ・ミノとチャンネーはべらかすような判りやすい「成功」を夢見て、ほとんどそれを掴みかけたそのとき落とし穴に落ちてしまった。これはこれで、なんというかもう「人生!」としか言いようがない趣がある。どう見ても相当強い格闘家である秋山の転落劇の裏側には、彼の生きざまがべっとりと貼りついている。松本清張の小説みたいな後味の悪さだよ。

桜庭vs秋山は、実に多くのテーマを含んだ試合だったと心底思う。世のいろんな人がいろんな角度から、この試合とこの試合が示唆する何かを語り続けている。さすがにわたくしもそろそろやめますが、やっぱりこれは簡単には語り尽くせぬ、たいへんな試合だったんだと思う。