わたくしの中の暗黒神話体系

今回は、心当たりのない人にはまったく訳の判らぬ話である。訳が判らんと思った人は速やかにブラウザのタブを閉じて、このブログと僕のことを忘れてください。

先日、はじめて「ヨコ出し」こと「ヨコハマ買い出し紀行」というマンガを読みまして。これは多くのマンガ読みに絶賛され、傑作と評される作品であります。

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

全14巻で完結してる作品なので一気に読んだが、実際はこれ月刊のアフタヌーン誌で12年にわたって連載された作品である。12年これにつきあうってのは、なんとも凄いなあと思う。面白くないのかと問われれば、正直言って面白かった。ただ、何よりも「あー、これ暗黒神話体系のド真ん中に位置する作品だなあ」という感想が先に立ったのだ。

ここで、オレが仮に「暗黒神話体系」と呼んでいる概念について詳しく説明しなければならない。この概念を発見、というか自覚したのは数年前のことで、すでにブログもやってたから書こうと思ったこともあったんだけど、これについて書くのってキツイんですよ… なんちゅうか、自分の中のどろどろぐちゃぐちゃを人さまに晒すようだから、書こうと思うたびに尻ごみしてきたというのが正直なところだ。でも今回は書く。とりとめのない文章になりそうだが書く。

およそ20年前、高校生だったオレは遊佐未森というミュージシャンにイカれた。

遊佐未森 - Wikipedia

そのまんま、もうすぐ四十郎になる現在もイカれている。近年の遊佐未森はゼニのとれるような音楽をあんまり発信できてないが、それでも新作が出れば買う。なにしろ20年のつきあいなので、これはもう仕方がないである。「ヨコ出し」の12年に呆れてる場合じゃなかったなあ。

話を戻して当時なぜ遊佐未森イカれたのかといえば、その頃のオレが全然知らなかった「何か」に出会ったからである。遊佐未森の歌声はこの世の誰よりも美しいのだが(これホント)、その美しい声で歌われるのは「聖なる何か」だった。彼女の歌は、時に日常の中に聖的な何かを発見し、時に聖的な何かそのものと化して世界を美しく変えた。早い話が遊佐未森の音楽に触れ、オレには世界が違って見えたのだ。

オレの生きている梶原一騎的やさぐれ世界は唯一絶対のものではなかった、全然違う道もあって、遊佐未森的なおだやかで美しい世界を生きる道もありうるのだ… と、そう思いつつ梶原一騎的にやさぐれた20年を過ごしておっさんになってしまったが、対岸にあるおだやかで美しい聖的な何かを常に感じていることは、それだけで幾ばくかオレの支えになってくれたと思う。どこかで遊佐未森に救われていたのだ。

以上はただの個人的な思い出話だが、ここで話を一気に相対化し、結論を述べる。オレにとっての遊佐未森がそうだったように、ある一定の割合の男には、心に何か聖的なものを携えずにはいられない精神性がある。聖なる何かを愛でたいという欲求がある。そしてこの「ある一定の割合の男」とは、ズバリ言ってオタクのことである。

オレは夜な夜な友人とオタク賢人会議を重ね、このオタクの精神性を考えた。そして「オタクどもが希求する聖性」に対して、長年にわたって聖性を供給し続けてきた巨大な文化体系が連綿脈々と存在することに思い至った。表立って語られることのなかったこの文化、我々はこれを仮に「暗黒神話体系」と呼称することにした。ラヴクラフト先生ごめんなさい。

音楽でいえば、遊佐未森暗黒神話の御本尊と言ってもいいほどのド真ん中にいる。他に名が挙げられたのはZABADAK新居昭乃坂本真綾など。ネタ半分の人も含めれば、アニメの声優さんにはゴロゴロいそうだ。

マンガにも暗黒神話体系は存在する。ド真ん中が上述の「ヨコハマ買い出し紀行」。オレは未読だが「ARIA」天野こずえ)も典型的で凄いらしい。今度読んでみよう。

ARIA (1) (BLADE COMICS)

ARIA (1) (BLADE COMICS)

マンガも「BLOOD ALONE」(高野真之)ほどになると欲求に慎みがなくなり、もうやりたい放題である。
BLOOD ALONE 1 (電撃コミックス)

BLOOD ALONE 1 (電撃コミックス)

聖的な何かへの慈しみよりも、自分がいかに快楽を享受するかが問題となる。しかし、オレはここにオタクの精神性の正体を見たような気がする。このマンガに関しては、オタク賢人会議の友人のすぐれた記事がある。

「BLOOD ALONE」 高野真之 - 空気吸うだけ

この記事で引用されている大槍葦人先生のお言葉は、暗黒神話体系の経典の巻頭を飾るに相応しいシックス・センスだ。

僕は完全なものに惹かれる。
先にも言ったが、完全であるというコトは優れているというコトとはまったく別の次元のモノだ。
純粋な、足し算ではなく引き算で到達するたぐいのモノなのだ。
それはこの世界では限定的にしか存在しないし、出来ない。
そういうわけで、LITTLE WORLDというタイトルは、そういった僕が心癒される世界、箱庭のような調和のとれた世界。
自分自身が求め、描きたい世界を象徴する言葉としてつけた。
思えば、僕はGARDENだとか、ROOMだとか、LITTLEだとかの言葉をよく使うが、全てその感覚はここに帰結しているのかもしれない。

大槍葦人自選画集 LITTLE WORLD (再販)【書籍】

大槍葦人自選画集 LITTLE WORLD (再販)【書籍】

我々の愛した儚くも美しい聖なる世界、残念ながらそれは「この世」のありようとは違う。それは大槍先生が言うように「限定的にしか存在しないし、出来ない」類のものだ。実際の世界は、梶原一騎の劇画のようにできている。泥臭く、暑苦しく、しんどくて、理不尽で、感動的におもしろい。ちょっと気を抜くとヤクザや政治家が出てきて拷問とか始まっちゃう。銀座のママは逆さ吊りにされ、警官は市民を殴る。人間の性、悪なり! それが現実だ。宮崎あおいは実在しない!

それが音楽なのかマンガなのか、映画なのか文学なのかは問題ではない。暗黒神話は、オレの中にあると同様、あなたの中にも存在する。しかし我々が苦虫を噛みつぶしながらも認めなくてはならないことがあって、我々の思慕の対象である聖的な何かは美しいかもしれないが、それを求めてやまない我々オタクの精神、これは別に美しくない。これはただの欲求、欲望である。その自覚が、絶対に必要なのだ。暗黒神話に惹かれ続けてもいいが、しかし自分は決して聖ではない、むしろ俗だと知ることが必要なのだ。さもないと、いずれ途方もなく大きな落とし穴に落ちてしまうような気がする。要するに諸兄よ、自覚せよ、気をつけろ危ないですよとわたくしは言いたいのであります。

追記

バブル期に隆盛を極めた恋愛至上主義本田透氏の言葉)は、ホットドッグプレスを読めトレンディードラマを観よ街に出てナンパせよと若者にアジった。こんな過激思想、オタクにはとてもついていけないわけです。だから暗黒神話は積極的な恋愛を謳わずに、むしろ避けているような作品が多い。暗黒神話はオタクが手に入れた恋愛至上主義へのカウンターパンチであり、逃避場所だった。ただそうは言ってもオタクとて性欲はあり、実際はむしろリア充以上に欲望を溜めこんでおり、それはしばしば歪んだ形で暗黒神話に反映される。不自然なほどに登場人物が全員美少女ばかりのアニメは、その典型だろう。
宮崎駿の「ルパン三世 カリオストロの城」には暗黒神話の萌芽が見受けられる。可憐で清楚な美少女クラリスを抱けないルパンに、我々オタクは喝采を送る。ホントは我々はただ単にモテないからクラリスを抱けないだけなのだが、想いを寄せられて尚、あえて抱かないルパンになりきって非常に気持ちいいわけです。なんだ図々しい話だな。