ボーキャクとは忘れ去ることなり 「君の名は。」

新海誠監督の最新作「君の名は。」を観てきましたよ。観客には若い子が多くて、総じて好評ムード。泣いちゃってる女の子もたくさんいましたよ。

万人向けとまではいかずとも、若い世代の支持を得るエンターテインメントを新海先生がモノにした一方、劇場に貼られていた「好きになるその瞬間を。 告白実行委員会 劇場版第2弾」のポスターを見て、いま本当にヤバいアニメの最先端はたぶんこっちなんだろうなと思ったりしました。

以下感想、例によってネタバレありなので観てない人は読んじゃダメですぜ。

2人が出会うことを、観客が望んでいた。それがもう答えだろう。 (★4)


瀧くんも三葉ちゃんも、どこに出しても恥ずかしくない、健やかで美しい青少年だ。きっとみんな好きになる。象徴的だと思ったのが、入れ替わりがあってまずオッパイ触るでしょう。ああ、なんて健やかなんだと思った。以前の先生ならこういう性欲は頑なに表に出さず、ムッツリと貯めるだけ貯めこんだ挙句に後半で暴発していたものだ。でもまずオッパイ触る。スケベイベントはあっさり済ませてしまう。こんな成熟した振る舞いを新海先生ができるなんて、ぼかー思ってもみなかったんだ。ちなみに少年に入れ替わった少女はまずチンコを触って赤面するんだけど、あれもなかなかいい場面で、男子高校生の朝のチンコの状態なんてまー皆さんも想像つくでしょうが、エネルギー充填120%ですからね。先生やるじゃない。


個性ある固有のキャラクターに感情移入させるのは前作「言の葉の庭」から始めたことだし、死者の世界と現実の改変は「星を追う子ども」の雪辱戦だ。恋い焦がれて出会えぬ「秒速5センチメートル」、奇跡の代償に記憶を失う「雲のむこう、約束の場所」、デジタルデバイスに託す交流は「ほしのこえ」。今作には新海先生の過去作の要素が集約されており、これまでの集大成にしようとしたと思われる。瀧くんなんて大成建設の面接まで受けてたからね、CM仕事までカバーしてるのだ。


お話は、相当ムチャクチャだ。そもそも原因を説明できぬ思春期男女の入れ替わり現象にはじまり、隕石災害、時空のズレなどでぶんぶん振り回され、歴史の改変に至る。入れ替わりからして相当無理があり、家族や友人には異変を気づかれず、2人は互いの生活を体験してなお3年の時差に気づかない。おかしいところは無数にある。超常現象にはほとんど説明がなく、ご都合で勝手に決めてるルールや法則らしきものもろくに提示されない。何もかもデタラメなんだけど、新海先生は2人の心情に寄り添うだけであとは知らん顔、イヤー不思議なお話ですねーで押し切っている。我々が2人を好きになっていさえすれば、少なくとも映画を観ている間はあんまり話の穴が気にならないように表層のガチャガチャで「誤魔化して」いる。たとえば途絶えた入れ替わりが、なぜ口噛み酒を飲めば復活するのか、なぜ彼が復活すると確信したのかは、よく判らない。判らないが、ババアの適当な言葉や少年の若さやスピード感で、なんとなく雰囲気で押し通している。これはベストではないにせよ、新海先生のやり方としては正解だと思うのだ。こんな不思議だらけの映画、説明したら2時間かかる。たとえばSF、或いはファンタジーとしてそれなりに真剣に作られた「雲のむこう、約束の場所」の、聞くに堪えぬ説明台詞を憶えているやつはいない。でも「すごーい、ひこうき!」とかは憶えてるでしょ。先生は宇宙のことわりを放り出して、少年少女に集中した。辻褄を気にせず、退屈させないエモーショナルな映画を作った。これまたご都合ルールで記憶を失った2人が、5年後の東京で邂逅する結末。引っかかる経緯は山ほどあれど、瀧くんと三葉ちゃんが出会うことを観客が、オレが望んでいた。それがもう答えだろう。新海先生は勝ったのだ。


映画の後半、必ず訪れる災厄を回避せんと2人は奔走する。明らかに2011年、3.11の東日本大震災のことだ。奇しくも同年公開となった「シン・ゴジラ」は、有事に際して必要な実務と行動をフィクションの中で描いた。行動力ゼロの新海先生は、庵野秀明とはまったく違ったアプローチをとった。ここにあるのは「みんな避難して助かったらいいな」という子供じみた「思い」だけだ。リサーチなし。無策。幼く、拙い、ただの夢。こんなもん、現実にはクソの役にも立ちゃしない。しかしあの日、日本中の誰もがそれぞれの胸の内で思い、祈った筈だ。ひとりでも、多くの人に助かってほしい。みんな助かったら、どんなにいいだろう。どんなに素晴らしいだろう。


あんまりにも幼く拙い夢は、幼く拙いからこそ胸の奥に響く。これだけ奇跡が山盛りの絵空事ファンタジーなんだ、無邪気な夢を歌ってもいいんではないか、ちょっとズルいとは思うけど。技巧を凝らしセンスで勝負してきた新海先生は、技巧でもセンスでもなく、ただ無力な願望をぶつけることで、同じ願望を抱いていた観客の共感を得た。そりゃあこんなもん説得力ゼロ、現実性皆無で絵空事の「解決」にすぎない。しかしそれを観客が望んでいたから、銀幕の中でだけ辛うじて成立できたんだと思う。我々はどこにも存在したことのなかった、美しく甘い架空の絵を見た。先生は人柄、その幼い善性で勝利したのだ。そこも含めて、ちょっとズルいとは思う。


以下余談。ひとりの映画作家の成長を、リアルタイムで作品に立ち会いながら追ってゆくというのは本当に幸せな体験だと思う。かつてひとりパワーマックにまたがり、借りパクのモチーフと少ない引き出しを武器に、風車に突撃を繰り返していた新海先生。その蛮勇を我々は時に嘲笑い時に応援し、歪な童貞ビジョンにドン引きしたり陶酔したりしてきた。しかし先生はひとつひとつ弱点を克服し、表現の幅を広げ、何より批判を恐れず作品を作り発表し続けてきた。事ここに至って先生は東宝メジャー作品を手がけ、辻褄を誤魔化しまくりながらも観客をグイグイ引っ張る脚本を構成し、若い観客の支持を得た。これは本当に凄いことだ。ただ、作家の成長を見る喜びは置いて行かれる痛みと表裏一体でもある。ここ十数年、代わりばえのしない自分のしょうもなさには我ながらビビるしかない。だが先生は飛んだ。ついにエンターテインメント長編をモノにした。小さな痛みを感じながらも、これは心から祝福したいと思うのです。