久々に観た「トゥルーライズ」はやはりキャメロンの映画だった

久々に「トゥルーライズ」をDVDで。なんと国内ではブルーレイが出てないんだな。後進国かよ恥ずかしい。公開時に渋谷の劇場で観て、以後も何度か観ている。

ジェームズ・キャメロンの作品の中ではあんまり重要視されず、語られなくなった映画だ。悪趣味なコメディでもありつつ莫大な予算の超大作アクションでもあって、どう受けとればいいのか困った人も多かろう。ちょっとバカにされている節さえあるが、世界最高の映画作家ジェームズ・キャメロンがただの駄作を作るわけがないのであった。今でも多くの娯楽映画が「トゥルーライズ」の影響下にあると思う。トム・クルーズのスパイのやつとか。

ジェームズ・キャメロンは、人間を「テクノロジーを通じて心と心を通わせる生命体」と定義している (★4)


94年の公開時に「トゥルーライズ」を観た20代前半の自分は、少なからず取り乱したのをハッキリ覚えている。キャメロンは業界の作品レベルを更新・決定する映画作家で、この作品ではハリウッド製アクション・コメディの「以後」の基準を作り上げた。キャメロンの「娯楽映画はここまでやるんだよ」という声が聞こえるようだった。今作が示した娯楽映画の新たな基準によって、多くの傑作が過去のものになってしまったと感じた。デジタル合成によるかつてないレベルの特撮、夜の場面も隅々まで把握できる照明と撮影、過激な事象をちょっとした冗談のように見せ続けるハリウッド娯楽映画の文法(コード)、複雑な活劇の明快なコンテ。すべてのキャメロン作品と同じく「トゥルーライズ」が映画史の中で重要な作品なのは明らかで、いずれ必ず再評価されよう。必ずされる。それはもう判りきってることだ。


一方で映画は時代の子であって、キャメロンとて時代の制約からは逃れられない。アラブ人をテロリストとして捉えギャグとして扱う不謹慎は911以前のアメリカ人には通用したかもしれぬが、911以降は「なし」である。シュワの妻への執着は極めて変態的で、悪趣味との誹りは免れない。ま、それはいい。そういうもんだ。悪趣味だよな。核爆発の描写にも盛大な文句があるが、キャメロンが企画している原爆映画に免じてここでは触れない。


この映画の最も素晴らしい瞬間は、シュワがジェイミー・リー・カーティスを取り調べる場面にある。妻はガランとした取調室にひとり。マジックミラーを挟んで、シュワと相棒は別室にいる。マジックミラーは強化ガラスだ。シュワたちの声はボイスチェンジャーで加工されて取調室に響く。シュワの前には妻の表情を映すサーモグラフィーの画面。


倦怠期の夫婦が、非対称的なシチュエーションの中で対話する。妻は抑えてきた心情を吐露し、夫は妻の思いがけない過激な一面を知って驚き、感動する。この古典的な、陳腐と言ってもいい人間ドラマが、多種多様なテクノロジーに囲まれた中で行われるのだ。観客は妻の重要な告白を、画面いっぱいのサーモグラフィーのカラフルなモニター映像とともに聞くのである。その告白は、不思議な感動を伴って我々の胸に届く。日常に退屈した主婦のしょうもない気持ちに触れて、なぜかシュワとともに感動を覚える。妻はイスを強化ガラスに叩きつけ、蜘蛛の巣のような亀裂が生じる。その亀裂をガラスの裏から眺め、感嘆するシュワ。妻はこんな女性だったんだ。こんな人だったんだ。


乱暴に言ってしまえば、ほとんどあらゆる映画は「人間とは何か?」を描いている。「人間とは何か?」を作り手はどう考えているかが、必ず映画に表れる。映画作家の、映画作品の個性って、要は「人間とは何か?」の定義のことだ。


現代で最も偉大な映画作家のひとりであるキャメロンは、人間を「テクノロジーを通じて心と心を通わせる生命体」であると定義しているのだ。そうするのが人間である、神でもなく動物でもない、人間だけがそれをやるんだとキャメロンは自分の映画で、何度も何度も繰り返し繰り返し表現してきた。キャメロンの映画は全部そうだ。そういう人間、そうする人間を描き続けている。そして、それは正しい。テクノロジーがサルを人間にしたのである。


テクノロジーの進歩とともに変化し続ける芸術「映画」は、キャメロンに相応しい絵筆だ。キャメロンは工業を芸術に昇華させる。比較的軽い味つけのコメディである「トゥルーライズ」(まあ製作に1億ドルかかってるけど)にも、確かにその作家性が刻み込まれている。

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ジェイミー・リー・カーティスのサーモグラフィー画面