世間、大衆、共同幻想

ターザン山本は、競馬に関する文章の中で大衆をバッタの大群に喩えている。空を黒く覆いつくす、異常発生したバッタの大群。あの中のバッタ1匹1匹は、もう自分がどこへ向かって飛んでいるのかさえ判らなくなっている。行き先さえ判ってないやつだらけなのに、バッタの大群全体はなぜか意思を持つ生き物のようにある方向へ移動していく。行き先に死が待っていたとしても、バッタの大群は止まらない。バッタの死の行軍だ!
アイザック・アシモフのある小説には「心理歴史学」(サイコヒストリー)という科学分野が登場する。人間ひとりひとりの行動は、どんな科学でも予想できない。しかし行動予測の対象となる人間が社会の中である一定の個体数を超えた集合体(大衆)であれば、その行動を科学的に予測する、確立と可能性の方程式が成立する・・・という、歴史というよりも社会科学に近い架空の学問である。群集心理というものを極限まで拡大解釈して生まれたこの発想は、科学ではないにしても世の真実にかなり肉薄した発想のようにオレには思える。ちょっとネットで検索したら、頭のよさそうな人が書いた文章があったので参考までに貼っておこう。
共同幻想の中のバッタは幸せだ。競馬において共同幻想は、オッズという目に見える形であらわれる。1頭強い馬がいれば、圧倒的な人気を集める。その馬が「物語」を背負っていればなおさらである。競馬をやらない人にはピンとこないだろうが、この馬に勝たせてやりたい、そう思わせる馬が時々いるものなのだ。そして競馬においてマスコミが提供する情報はすべていいかげんでデタラメで、まるでなっちゃあいない。だからこそ、一度加速がついた共同幻想は面白いように暴走する。馬は言葉を喋れないので、「オレ今日は調子が悪い」とか喋ってくれない部分は人間が想像するしかないという事実も、共同幻想に拍車をかけている(馬だけに)。競馬はこういった共同幻想を構造的に取りこんだ娯楽なのだ。
しかし馬券はリアリズムである。幻想と現実は時に大きく食い違う。競馬の結果は宇宙の真理であって、誰も逆らえない。穴馬券を狙うということは、共同幻想に背を向けて大衆の群れから離れ、孤独に共同幻想を撃つ側にまわるということである。それは高く危険な険しい道だ。いいかげんな情報の裏を読み、競馬新聞の見出しや扱いの大きさにも惑わされず、挫けそうな心をいくら奮い立たせても友達に「そんな馬来るわけねえだろお前はバカか。バーバーカ」とバカにされる。そんな苦労をしても真理にはなかなか到達できない。馬券をとるということは、はっきり言ってノーベル賞をとるよりも難しい。だいたいそんなもんなあ絶対に共同幻想の中にいるほうが幸せに決まってんだよ! でもオレは共同幻想よりも、自分だけの幻想を作りあげてそれに賭けたいのだ。勝利したときには、勝ち馬とオレの頭上には栄冠が輝く。他のやつらはバッタの死の行軍だ! ザマ見ろ! 人がゴミのようだ!
世間や大衆を「撃つ」側にまわるということは、自分を急速に殺し屋化するということだ。ものを作るという行為には当然色々なありようがあるのだけど、オレにとってものを作るということは、殺し屋と化して世間を撃つということに近い。作品の力で世間を一瞬でもいい、少し変えるということだ。共同幻想を新たな幻想でひっくり返し、世界をほんの少し動かすということで、そういう映画や小説がオレは好きだ。念のために書いておくのだが、それは世間に通じる言葉で世間を変えるということであって、通じない言葉で作られた映画や小説にはそもそもそんな力はない。環状6号線(環状線理論のことはCinemaScapeの「少林サッカー」コメントで書いた)の中のアート系映画の大半をオレがあまり評価しない理由の根っこには、それがある。

ターザン山本の俺は天下の馬券下手!!

ターザン山本の俺は天下の馬券下手!!