脆弱なジャンルを支える沸点の高さ

ある古い野球本を探していて、しかしどうしても都立多摩図書館でしか見つからない。都立多摩は閲覧のみで貸出しをしない上にメチャ遠い。この際コピーでも仕方がないと若手を行かせたが、探している過程で考えさせられたことがあった。毎度のことですが、以下の文章はプロレスオタクの野球ド素人が書いている所感です。間違ってたらごめんなさい。
プロレスショップというものがある。プロレスのビデオ、Tシャツ、古本、チケット、入場曲CDなどのグッズを扱っており、いいダシがとれそうなプロレスオタクがウジャウジャ集まって暑苦しいことこのうえない店である。東京に住むプロレスオタクなら、そんな店の1軒や2軒や3軒や4軒は心当たりがあるものだ。例えば古いプロレス本を探すことになったら、オレは図書館よりもまずはそういったプロレスショップを最初にあたるだろう。
驚くことに、野球にはそういう暑苦しい店がないのだ。あるのかもしれないが、少なくともちょっと調べた限りでは判らなかった。野球関連の本を重点的に取り扱う古本屋は少しあったが、そうレベルが高いわけでもない。普段から野球ファンを名乗っている同僚に尋ねても、そういう店には心当たりがないらしい。確かにオレもそんな店は見たことがないのだが、どっかにあるんだろうと思っていた。ないのである。野球はプロレスに比べて圧倒的にメジャーなのではなかったのか? 世間の大半を占めている野球ファンは、そういう場を必要としていないのだろうか?
プロレスにおいては、沸点の高いファン、マニア、オタクどもの需要がプロレスショップを成立させている。そもそもプロレスショップ自体、プロレスが好きすぎて人生狂わせたファンが運営しているようなもんである(暴言)。野球は行きすぎたファンの割合が小さく、その需要がないに等しいのだろうと思われる。さらにいえば世間とゴールのない闘いを続けてきた歴史を持つジャンルの鬼っ子・プロレスと比べて世間的には認知されまくりのジャンルである野球のファンには、野球というジャンルそのものを愛する、守るという意識が希薄なのだろうか。野球ファンというよりも、むしろ特定のチームのファンという意識の方が強いのかもしれない。少なくとも世の野球ファンにはもしかしたら明日野球というジャンルがなくなっているかもしれない、という危機感は皆無だ。オレからすると、野球ファンは安心しきっていてゆるゆるに見える。正直ちょっと羨ましい。本音を言えばわたくしもG1に出たい!
思いあたったのは、つまり活字プロレスはあっても活字野球と呼べるものは存在しないのではないかということである。活字○○とはターザン山本がでっちあげた用語で、大雑把に言えば徹底して観る側から○○を考えること、考えさせることを主眼とする出版文化の一形態である。およそ活字プロレスの始祖は村松友視の「私、プロレスの味方です」であろうが、

合本私、プロレスの味方です (ちくま文庫)

合本私、プロレスの味方です (ちくま文庫)

おそらく野球というジャンルには活字野球という文化が成熟していないのだろう。野球関係の書籍はたくさんあるのだろうが、観る側主体の活字野球と呼べるものがどれほどあるのかは甚だ疑問だ。オレが知らないだけなのかもしれないのだが。
ちなみに、活字競馬は存在する。