「機動戦士ガンダムUC」の完結と、なぜか「Z」

先日、4年がかりのOVAシリーズ「機動戦士ガンダムUC」が全7作をもって完結した。

福井晴敏による原作小説は読んでいない。完結編の第7章を観るのとほぼ同時に、偶然しばらく前から観かえしていた「機動戦士Zガンダム」テレビ版全50話も観終えることとなった。両作を観終えた感慨は実に深く、いろいろな意味でZとUCは対照的な作品であったのだなあと思う。

心は千々に乱れ、あんまりまとまった文章を書けそうにないので箇条書きにしてお茶を濁すこととする。

  • 「Z」はバンダイサンライズの腐った大人たちに「ガンダムの続きを作れ」と強要された富野が「だったら作ってやんよ」と悪意とヤケクソで作った、「機動戦士ガンダム」とその熱烈なファンへのカウンター作品だ(ということになっている)。ファーストで最終的に描かれた希望は絶望へ、祝福は呪いへ、相互理解は無理解と敵意へと変換されている。
  • 「Z」全編にわたる登場人物同士のディスコミュニケーションはもの凄い。誰かが何かを言うと、別の誰かに即座に否定される… 或いは関係ない話に変えられる、といった場面が異常に多い。
  • 「Z」においては暴力が極めてカジュアルに描かれており、今観るとその感覚にビックリする。ファーストでもブライトさんがアムロを殴ったりしてたけど、「Z」では誰も彼もが気軽に他人を殴る。第1話ではカミーユは空手部の主将に殴られ、名前の件でブチギレてティターンズのジェリドを殴り、逆に天龍ばりのチョン蹴りを顔面に喰らい、さらにはMPをハイキックKO。不自然に思えるほど暴力への敷居が低い。
  • 「Z」第1話はファーストの第1話の流れをなぞっている。コロニー侵入の軍事作戦に始まり、戦艦の発砲で終わる。しかし暴力描写ばかりやってるせいで、カミーユアムロのように第1話のうちにガンダムに乗れない。
  • カミーユの父親フランクリン・ビダン大尉が死ぬ時、それまで登場してもいない愛人マルガリータのイメージがいきなり脳裏によぎる演出とか夕方5時のアニメなのに斬新すぎる。さらにジェリドの戦友カクリコンが死ぬときにも愛人演出が炸裂。富野は愛人、不倫、家庭不和、人間不信とか好きすぎる。そして敢然と子供にそれを見せる。
  • リアルタイムで「Z」を観ていた中学生の頃にはベルトーチカはクソ女だと思っていたが、今見てもクソ女だった。アムロという英雄の隣でデカい顔をしているが、こいつにはセックスしかない。こういう人は現実にもいるよな。
  • 逆に当時いい人だと思っていたエマ中尉、今見るとかなりひどい。実にカジュアルにカミーユにビンタする。一見いい人、一見理性的、一見倫理的なフリをしており本人もそう信じているのだが実態は気分次第でビンタする身勝手な女。こういう人も実在する。
  • 中学生だったオレには理解不能だったレコアさん。戦争という大状況の中で、大義より自分のセックスを優先。シャアが自分になびかないと敵に寝返り、シロッコの安い口説きに身を任せて「今の私は女としてとても充足しているのよ!」とシャウト。こういう人も現実世界にいる。現実にいるが、不愉快なのでフィクションで描かれることは少ない女性像がバンバン出てくる。富野の精神状態が心配になる。
  • シャアの小物感も遠慮なしに描かれている。オレもいつか若者にオヤジ狩りとかされてボコられたら泣きながら「これが若さか…」或いは「サボテンが、花をつけている…」とクワトロ大尉でキメてみたいと思った。中学生感覚ではカッコよく思えた百式は、劇中でけっこうバカにされている。特筆すべきは百式の巨大なメガ・バズーカ・ランチャーで、どう見ても超カッコイイのだけど、全然命中しないんだ。露骨にシャアの不能を表現している。
  • カミーユは稀代のエキセントリック少年で、サラとアイスクリーム食べて「貧しい青春なんだ〜」とか言ってた舌の根も乾かぬうちに「今度会ったら八つ裂きにする!」とブチギレてスピアー敢行、馬乗りになってマウントパンチ。しかし扱いこそ難しいものの、彼は登場人物の中ではいちばん誠実で、いいこともたくさん言っている。本当はいい子なんだ。なのに周りの大人は全員が対話不能の狂人ばかりで、ストレスは溜まる一方。全話見ると、最終回でああなってしまうのは理解できなくもない。気の毒すぎる。
  • 「UC」のバナージ君は稀代のオヤジキラー。彼の青臭い倫理は疲れて汚れた大人たちにも「かつて童貞だった自分」を思い出させ、面倒を見てやろうという気を起こさせる。「Z」を観てイヤな気分になった自分にも、よりよき未来への希望を感じさせてくれる。

で、ロボットだから何なのかというと。お話のなかで、世界を守るロボットを操るパイロットは大概が童貞だ。それはなぜか、という話だ。(中略)「人類のなかで童貞にだけは、最後の最後で愛とエゴ以外のもの(つまり「正義」なるものをだ)を辛うじて選び取るポテンシャルがあると信じられているから、世界の命運を預けるに足るのではないか」あたりまではもっていくべきところ。

http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090821#p1
  • 「UC」には立派な大人たちが数多く登場し、矜持を示してバナージ君成長のコヤシになる。これは「Z」と対照的で、カミーユの周りにもこういう大人たちがいてくれたら、と思わざるをえない。逆に言えば、バナージ君だって理不尽な理由でバンバン修正されてれば危なかっただろうと思う。
  • 「UC」第7章で、マリーダさんの思念はアルベルトのところには来なかった。キモメンが寄せる慕情など届きはしないという現実が泣かせる。愛する女を勝手に失ったアルベルトの顔は「きれいなジャイアン」みたいな男前になる。あれは童貞に戻ったキモメンの顔なのだ。ああなったアルベルトはリディ少尉なんかよりずっと文学的な存在で、信頼に足る人物である。
  • 富野コンテは画面上の「映像の法則」ばかりに依っていて、ロケ地の(アニメだからロケじゃないけど)構造、位置関係、距離感、遠近や高低を描く空間演出は全然できてない。いかにも虫プロ育ちらしい「場」に無頓着なアニメ屋さんで、それでも宇宙が舞台だからどうにか成立してきたのだ。しかし「UC」の監督古橋一浩さんは空間演出が実にうまく、例えば第6章、戦艦ネェル・アーガマの狭いMSデッキ内でのキャラクターの位置関係、そんな場所で戦闘することの危険性というものがよく判るように作ってある。これは今までのガンダムにほとんど感じたことのない快感だった。
  • 「UC」の音楽は「ガンダム」の一連のシリーズの中でも突出して素晴らしく、たいへん崇高なヒューマニズム、高潔なる倫理、繊細かつ力強い意志を感じる。きっとこの作曲家は童貞に違いない。あんないい曲、童貞にしか書けまい。
  • 大雑把に言えば、富野はファーストで過酷な世界の中の希望を描き、次なる世代の子供たちを祝福した。劇場版「めぐりあい宇宙」のラストに出てくるメッセージ…「And now in anticipation of your insight into the future.」は、今に至るガンダム文化の頂点であり、「ガンダム」という作品の長い歴史の中で、富野と我々ファンが最も幸福だった瞬間であろうと思う。その幸福は、数年後の「Z」で台無しにされるのだが。
  • 乱暴な物言いだけど、ファーストほどの作品をモノにしたら作家はそこで死んでもいいはずだ。しかし富野由悠季は同じことを繰り返さず、どんなにひどい地獄めぐりになろうとお構いなしに前進する作家だ。公平に言ってこれは凄いことで、一生「スターウォーズ」で食ってる人だっているし、Googleに会社を売って南の島で過ごすみたいな余生もあった筈なのだ。
  • ファーストの祝福と「Z」以降の呪いを一身に受けたファンがオッサンになり、富野へ投げ返した返歌「UC」。富野がもう絶対に描かない「立派な大人たち」を描くことで、よりよき世界に希望を持つという信仰を復活させた。ラプラスの箱は、祈りが100年かけて呪いに変質したものとされる。これは「ガンダム」という作品そのもののことだ。それを再び祈りに戻したい、「めぐりあい宇宙」のラスト、あのガンダムのピーク、アニメ新世紀宣言よもう一度というわけで、要するにたとえ世界が何ひとつ良くならなくても、我々は未来への希望を失わず生きていきますよ、富野パイセンご心配なく、とそう言っておるのだ。もっと過激に進んで富野を撃ち、父殺しを完遂する作品も観てみたかった気はするが、さすがに作品世界をまるまる借りといてそれはできないよな。マイナスをゼロに戻すという意味では後ろ向きな作品で、坂口征二的なアプローチと言える。マイナスにマイナスをかけて膨大なプラスを狙うアントニオ猪木的なアプローチではない。
  • 「UC」はガンオタオヤジを狙い撃ちにした極上のポルノであり、ハイコンテキストすぎる作品のあり方には批判もあろう。オレだって文句がないわけではない。しかし終わってみれば、感謝の念しかない。富野の新作「Gのレコンギスタ」はもうすぐだ。「来週もトミノと地獄に付き合ってもらう!」 その覚悟はすでにできている。いや、やっぱりなんか怖いな。ちょっと待ってくれませんか。ダメですか。そうか。

「エイラ 地上の旅人」の完結に立ち会う

「エイラ 地上の旅人」 日本語版公式サイト

ケーブ・ベアの一族 (上) エイラ 地上の旅人(1)

ケーブ・ベアの一族 (上) エイラ 地上の旅人(1)

大地の子エイラ―始原への旅だち 第1部 (上)

大地の子エイラ―始原への旅だち 第1部 (上)

あの「エイラ」全六部作が遂に完結! といっても、完結編の翻訳が出たのは昨年のことなのだが。

自分がはじめて評論社版の第一部「大地の子 エイラ」を読んだのは20代前半だったから、もう20年も前のことだ。3万5千年前の黒海周辺、旧人ネアンデルタール人の氏族に拾われた新人クロマニヨン人の少女エイラの苦難と文化衝突の物語だった。この第一部は明白に傑作で、誰が読んでもその面白さに悶絶して座りションベン漏らすこと請け合いである。当時オレも夢中になって読んだものだった。

以後も続くシリーズを読み進めていったのだが、面白さは徐々に減じていき、第一部の貯金を切り崩しているような感覚が拭えなかった。そして全六部作の構想だというシリーズは、第四部を最後に刊行が止まってしまった。翻訳の遅れではなく、作者の執筆がストップしてしまったのである。

10年くらい経って、すっかり忘れた頃に今度は集英社ホーム社が刊行を開始した。新たな完訳版として「エイラ」を第一部から完結まで刊行するという(評論社版は一部削除された抄訳だったのだ)。これを知った時も興奮したものだったが、新訳の第一部を読んでみてガッカリした。完訳なのは結構なことだと思うのだが、評論社版の訳文が素晴らしすぎた(訳:中村妙子)せいで、翻訳がドヘタに思えたのだ。こうなるともう、固有名詞の表記からして気に入らない。モグールじゃなくてモグウルだろ。イーザじゃなくてイザだろ。ケーブ・ベアじゃなくて洞穴熊、ケーブ・ライオンじゃなくて洞穴ライオンだろうが! などと要らぬストレスを抱える羽目になった。

で、その新訳版を改めて第一部から延々と読み続け、先日とうとう完結編の第六部を最後まで読み終わり、心から残念な気持ちになった。オレだって薄々判っていたんだ、例外的に第一部が奇跡的な傑作なだけで、あとは原始時代のハーレクインみたいな本だってことは。エイラは金髪碧眼の恋人とたびたび熱烈にモグワイいやまぐわい、縫い針や火打ち石、槍投げ器や動物の使役など人類史に残る革命的な発明発見を片っ端からひとりで成し遂げ、男女の性交が生命の誕生をもたらすという科学的事実にも勝手に到達する完璧超人だ。しかしそれにしたって、彼女が冒険してるうちは楽しく読めたんだ。それがなあ… 第五部第六部には冒険と呼べるものは何もなく、まさか、まさか、ただダンナの実家で小姑やご近所さんとうまくやれるかとか、地元の神社の巫女さんにスカウトされてしょうもない教義を延々学ぶみたいな話がだらだら長々と続くなんてなあ。オレは原始時代を生き抜くヒロインのロマンあふれる大河小説が読みたかったのであって、主婦の公園デビューだの原始宗教だのには興味ねえんだよ!

作者のジーン・アウルは40歳を過ぎて脱サラしてこのシリーズを書き始めたらドッカン売れちゃったという主婦であり、まーちょっと早かったハリポタ作者みたいなもんだ。シリーズ完結まで実に31年(1980〜2011)を要したわけで、普通に年くって体力落ちたんだろうな。第五部以降に過去作の振り返り部分がやたら増えたのは、婆ちゃんが同じことを何度も何度もモゴモゴ言うようなもんだ。

しかしそれでも曲がりなりにも一応完結させたのは偉いと、頭では思うのだ。絶対に終わらないシリーズを抱えたまま死ぬまで逃げきり、という夢枕獏パターンだって世の中には多いし、第四部のあと刊行が止まった時はオレもそう思って諦めていたのだから。…いや、実はそれもウソで、本音を言えばつまらない完結編を読むくらいなら、未完の大河小説として面白かったという鮮烈な記憶だけ抱えていたかったんだ。嗚呼、なにしろこの世はままならないことよ。エイラ、人生の一時期、確かにオレのヒロインだったエイラ。さよならだけが人生なのか。

大人のやさしさが子供の地獄となる悲劇 「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」

先日、開始以来20年近く聴いているラジオ番組「伊集院光 深夜の馬鹿力」で「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」(1969)の話が出まして、懐かしいなと思ってDVDで再見した次第。

ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃 [DVD]

ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃 [DVD]

Wikipedia - 「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」

Wikipediaを見ていただくと判るように子供が主人公であり、怪獣は子供の夢の中に登場するだけの存在である。つまり厳密に言えば怪獣映画でさえない。円谷英二の不在や予算の減額といった様々な制約の中で無理やりでっち上げられた作品で、過去作品のフィルムをバンバン流用している。おっさんになってから観てみると(伊集院のトークの影響も多少あるものの)、自分の中にガキの頃とはまた違う感慨が生まれてくることを知った。

怪獣島、怪獣島、応答せよ (★2)

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老いらくの殴り合い「リベンジ・マッチ」

グリフォンさんのご指名(https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/20140403/p1)を受けたから、ってわけでもないのですが、映画「リベンジ・マッチ」の感想です。原題は「Grudge Match」、要するにまー遺恨試合ですな。

なかなか楽しい映画だったのだが、ある一場面が実に感慨深かったのでご紹介。老いた元ボクサーであるスタローンとデ・ニーロが、自分たちの遺恨試合の宣伝に訪れたのが現代MMAの頂点、UFCの会場なのですね。そこで2人はMMAに対する印象を述べ、ひと悶着あるのである。


老いぼれボクサー2人が、UFCの会場で宣伝する場面が非常に興味深い。(★3)

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感想・砂の国


今月は仕事でエジプトに行ってきた。滞在は一週間ほどだったが、帰国後もそれ関係の仕事に忙殺されていたため映画や本、競馬にプロレス、深夜アニメなどの高カロリーなゴラクとは全然無縁な月だった。仕方ないのでエジプトの感想など書き残しておく。

2011年の革命以降、エジプトはシッチャカメッチャカのメッタメタだそうだ。国の偉い人はコロコロ変わり、その都度前任者とは違うことを言うらしい。情勢は安定しておらず、国のシステムの大部分が崩壊しているので何も信用できない。しかしそれでも人々は毎日を暮らしていて、日銭を稼いだり稼がなかったりしている。メシも食えば酒も飲む。意外だったのは、そんな状況下で皆さん結構余裕の顔つきなんだよなあ。ここでは人生があんまりシリアスではないのか、それともひどく諦めがいいのか、或いは常軌を逸してタフなのか、オレにはちょっと判らなかった。

なにしろエジプトの人が急いだり、焦ったりしている場面をついぞ見ることがなかった。いちいち余裕なんだよな。こっちは仕事で行ってるから、仕事上の手続きやなんかで「おいちょっと急いでくれよ」と思う場面も多かったのだが、まー連中は一切急がないね。まず、誰かと誰かが出会うでしょう。すぐ仕事の話すればいいじゃないですか。しかし彼らはまず握手。そしてハグ。そしてタバコに火をつけて立ち話。雑談してるとお茶(甘い紅茶みたいなの)が出てくる。気候が暑いのに必ず熱いお茶が出てくる。我々日本人は汗かきながらフーフー吹いたりしてなるべく早く飲むんだけど、エジプト人は自然にぬるくなるのを待ってるんだ。お茶を飲み終わると、おかわりが出てくる。仕事の話はまだ始まってない。ここでもう30分ぐらい経ってる。

治安は悪い。滞在中に世話してくれたエジプト人によると、「エジプト人はみんないい人。でも悪い外国人がたくさん入ってきてて、エジプト人のフリして観光客から金を奪ったりするから危ないよ」ということらしい。そんなみんないい人のわけあるかいとは思ったものの、我々日本人のド素人に中東の人たちの見分けなんかつかないのも事実で、はーさいですかと受け入れるしかない。宿から出歩くのも危ないと言われたので、夜遊びのたぐいは全然できなかった。人が集まるような場所には、自動小銃持ったポリスやアーミーがゴロゴロ。これには最初緊張したが、すぐ慣れてしまった。

住宅はレンガ造りか、黄土色の似たような建物ばかり。砂からして違うのだろう、そもそもコンクリートの色が黄土色なのである。以下はエジプト独特の習慣なのだそうだが、まず土地を手に入れたら平屋を建てる。それも屋上に鉄骨が飛び出ている状態で建てる。結婚したり子供が生まれたりで家族が増えると、屋上の鉄骨を頼りにそのまま2階を増築する。その際にも屋上には鉄骨を飛び出させてある。そんな具合に増築、増築を繰り返していくとだんだん高くなって一丁前のビルになるそうだ。市街地には、そんな適当な方法で造られたビルがゴチャマンと密集している。地震はほとんどないらしい。エジプト人に、全体の設計とかバランスとか大黒柱とかいった発想はない。レゴや積み木みたいな感覚のまま、平気で家を継ぎ足すのである。ピラミッドからしてそうなんだけど、石やレンガを積み上げればそれで大丈夫なんであって、それでええやん何がアカンのと言われれば返す言葉もない。

国の大きな収入源である観光は革命以降壊滅状態で、ほとほと困っていると言う(でも困ってるようには見えない)。仕事がないのだろう、昼間っから砂煙舞う道端でいい年こいたオッサンや爺さんが座りこみ、タバコを吸い、お茶を飲んでいる。それも大勢いる。わざわざ道路にテーブルとイスを持ちだして寛いでいる本格的なやつもいる。彼らにも食わせていかねばならぬ嫁さんや子供がいるのだろうと思えば不憫なんだが、なにしろ皆さん余裕の顔つきをしているのであんまり同情する気にならない。

交通はどいつもこいつも自由すぎる。信号というものをほとんど見ない。交差点は英国式のラウンドアバウトになってるのだが、なってない交差点でも自動車やバイク、歩行者が平気で行き交う。見てると危なくてハラハラするのだが、こっちの人はどうも危なさの基準が違うらしい。なぜか高速道路でも歩いてるやつがチラホラいる。ハイエースみたいな箱バンが多いのだが、例外なく後部のエンジンがむき出しになっており、横のスライドドアが開けっ放しになったまま走っている。不思議に思ってあれはなぜだと聞いたところ、エンジンむき出しはエンジンを冷やすため。ドア開けっ放しは乗ってる人間が暑いから、だそうだ。

野良犬が多い。それもみな痩せている。街なかの野良犬なんてオレがガキの頃でもたまに見かける程度、東京では全然見ないので新鮮だった。痩せ細り、人間に頼りきっていない野良犬の荒んだ顔にはなんともしれぬ野趣と風格が感じられ、どれも実に素晴らしかった。これこそ本来の犬の顔だと思った。日本のぬいぐるみみたいな愛玩犬とか室内犬とかもうバッカバカしくなっちゃってさー、お前らよーエジプトの路上で生きていけんの? お前それサバンナでも同じこと言えんの? と思いましたな。他には馬やラクダやロバもたくさんいて、こき使われていた。なぜかネコは見なかったな。

ショック映画としての「八つ墓村」

東京に雪降ってクソ寒く、仕事は苦手分野で四苦八苦、競馬は年明けから絶不調、CinemaScapeもアクセス障害が直らないとあって、ここしばらくはどうにも背中の煤けた毎日を過ごしております。半年ほど寝っ転がって「アラビアンナイト」を読むとか、そんな胸のすくような文化的活動がしたいものであります。

先日、友人との喫茶店トークの中で怖い映画の話になった。幼少期に観てトラウマとなったのは断然「八つ墓村」だなー、なんて話をしてたら久しぶりに観たくなっちゃって、DVDを借りてきた次第。

あの頃映画 「八つ墓村」 [DVD]

あの頃映画 「八つ墓村」 [DVD]

1977年公開の野村芳太郎監督版「八つ墓村」、当時5歳のオレは劇場には行ってない。数年後、小学生になってからテレビ放送で観たのだ。すでにドイルや乱歩を読んでおり、ガキながらいっぱしの探偵小説好きのつもりだった。市川崑石坂浩二金田一ものもテレビで数本観ていた筈だ。なぜなら「金田一耕助を寅さんの人がやってるのか、似合ってないなあ」と思った記憶があるからだ。とにかく山崎努が死ぬほど怖くて、しばらくは夜中に便所に行くのもイヤになったものだった。

その後も数回観ている。市川崑のトヨエツ版や、テレビドラマ版の類は観たことがない。今回は十数年ぶりの鑑賞だったが、野村芳太郎の「震える舌」や「鬼畜」をすでに観ており、何が社会派だコラ、何が名匠だコラ、イヤなイヤなイヤな映画をノリノリで撮ってるやんけ、あんさん鬼畜やホンマモンの鬼畜監督やでえ、ということも知っている。

「鬼畜」の感想  「震える舌」の感想

今回気づいたんだけど、監督・野村芳太郎、脚本・橋本忍、音楽・芥川也寸志というトリオは1974年の「砂の器」と同じ布陣なんだな。情緒で押して泣かせよう泣かせようとした「砂の器」の反動からか、「八つ墓村」の開き直ったような大暴走は凄まじい。ホラー映画でもスリラー映画でもなく、これこそ「ショック映画」と呼ぶにふさわしいエクストリームだ。まさか「八つ墓村」観てない日本人はいないと思うので、ネタバレ気にせず書きますよ。

アバンタイトルは戦国時代、落武者たちの敗走が描かれる。嘘みたいな断崖絶壁に、幾筋もの滝が流れ落ちている。落武者たちは絶壁の高所に張りつき、「クリフハンガー」みたいな状況になって進んでいる(なぜだ)。見たところ、命綱もろくにつけてないようだ。これ風景の壮観さでなんとなく見ちゃってるけど、相当ヤバい撮影だと思うよ。

空港で働くショーケン。この映画、現代劇として作っているのも凄いんだよな。岡山の山奥なんかキモい殺人だらけのクソ田舎だぜ、と言ってるに等しい。まあ今なら70年代も懐かしさの対象なので、当時の生々しさはいくらか薄れている。

大阪の弁護士事務所。ショーケンに会うために、田舎からやって来たおじいちゃん加藤嘉。ご対面して弁護士が席を外し、さーこれから話をするのかと思いきや、いきなりドプフォウとゲロ吐いて絶命。まだひと言も喋ってない。ショーケンも唖然。なんとなく覚えてはいたものの、これやっぱりビックリするね。いやいや、だって加藤嘉は「砂の器」ではハンセン病のオヤジを演じ、日本中を泣かせに泣かせた役者さんですよ。それがセリフを喋る間もなく速攻でゲロ吐いて絶命。「八つ墓村」はこういう映画なんだよオメーラ覚悟決めろよ、という宣言なのだろう。この映画は毒殺が多いんだけど、ゲロ吐いたり血ィ吐いたりアワ吹いたりで、生理的にたいへん不快です。ちなみに加藤嘉は後半の回想場面に出てきて、セリフも喋ってた。よかったよかった。

戦国時代、村人が村祭りと見せかけて落ち武者たちを殺す場面。血がブシュー。田中邦衛首チョンパ。カマで胸ザックリ。手ザックリ。火がボーボー。しかし、単なる血まみれゴアシーンのラッシュではない。テンポはむしろゆっくりしている。そして事あるごとにいちいち役者が顔を歪め、ここぞとばかりにギャーとかギニャーとか断末魔の叫びをあげる。苦痛表現がしつこいのである。サプライズでビックリさせるのではなく、イヤなものをしつこく見せることでショッキングな描写を成立させている。80年代のスプラッタ映画ではなく、明らかに70年代のショック映画特有の演出だ。つまり、実にイヤな気持ちになるのである。

山崎努演じる多治見要蔵の32人殺し。山崎努の奇妙な扮装、恐ろしいメイク、容赦なき攻撃性。虫けらの如く、しかし苦痛表現はしっかりカマして死んでゆく犠牲者たち。スローモーションの幽玄な美とノーマルスピード撮影のミもフタもなさの按配が素晴らしく、悪夢そのもの。ガキの頃、何度この場面の夢を見たことか。山崎努からは、絶対に逃げきれないんだよ。

クライマックスで夜叉のような顔に豹変し、ショーケンを襲う小川真由美は凄まじい。ここにおいて、この映画がミステリではなくオカルトであることがついに判明する。カットバックによる同時進行で探偵たる渥美清が村人相手に謎解きめいた説明をするのだが、この説明の空虚さがまた凄いんだ。ミステリとしては零点であろう。だいたいこの映画の金田一耕助は頭脳の冴えというものを何ひとつ見せないのであるが、証拠も根拠も何もなく、ただ小川真由美が犯人だと決めつけて、あとは祟り説を補強するばかり。たたりじゃのババアと変わらない。ミステリらしい論理展開は何もなく、この場面すげえ雑というか、投げやりなんだよな。地下の洞窟ではショーケン死にそう。小川真由美が超怖い。洞窟を追われたコウモリが多治見家に飛んできて、仏壇のロウソクを倒し、多治見家炎上。このくだりなんか、整合性のカケラもないピタゴラスイッチだ。ショーケンなんとか生きのびて、燃える実家を見て呆然。丘の上には8人の落武者たち。仇敵の一族の屋敷が焼け落ちるさまを見て笑ってる。おい、現代劇なのに落武者出てきたよ!! たたりじあ。八つ墓村のたたりじああ。

なんとこの映画では、祟り、亡霊、因果応報、天罰テキメン、イタチのノロイといったものが本当にあることになっているのだ。400年の祟りの前では、金田一少年の猿知恵なんて無力なものである。しかし、しかしですね、本来の推理小説の精神としては、事件がどれほど不可能に見えても超常現象に見えても、必ずや明晰なる論理が旧時代の因習を打ち破り、文明開化の精神が到来してくれなくては困るのである。たぶん横溝正史の原作だって、そこは守っていた筈なのだ。どうでもいいけど横溝正史、角川文庫の表紙がどれもこれもゲロ怖いじゃないですか。あんなおっかない本、家に持って帰りたくないよな。でも当時はバカみたいに売れたんだよなあ。

犬神家の一族」に代表される市川崑金田一ものは、みんな好きだろうがオレも好きだ。なにしろエンターテインメントとして優秀だ。タイポグラフィ芸、鮮やかなカッティング、石坂浩二のハマり具合、艶やかな女優たち。スタイリッシュでカッコイイよな。対して野村芳太郎の「八つ墓村」は、スタイリッシュとは程遠い。気が利いてるとも言いがたい。しかし何だか途方もなく骨太な、ドス黒いエネルギーのようなものを感じる力作だ。やろうと思えば「砂の器」を作れる実力の連中が、観客にイヤなイヤなショックを与えてやろうと一致団結、全力投球した結果、ミステリがオカルトに化けてしまったのが「八つ墓村」なのだ。功成り名を遂げた映画監督や脚本家や音楽家たちが、揃ってその方向にノリノリになる動機というものがオレにはやっぱり理解できないのだけれど、忘れたくても忘れ難いイヤなイヤなおもしろ怖い映画として、「八つ墓村」はオレの人生に刻みこまれちゃっておるのであった。

新日1.4東京ドームに思う徒然

レッスルキングダム8 2014.1.4 TOKYO DOME【DVD+-劇場版-Blu-ray BOX】

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

これまでの柴田勝頼後藤洋央紀の絡みは高校時代の先生まで巻き込んだ同級生同士による「なかよしプロレス」であり、同時にどういじくってもパッとしない後藤をどうにか使いものになるようにするための方便でもあったと思う。まったく後藤ときたら、顔も悪くない、体も悪くない、試合も悪くないのにいまひとつパッとしないという、90年代の飯塚孝之(現・高史)を彷彿とさせるナチュラルボーン中堅。ここに柴田との同級生ライバル物語という「スパイスを投入する」(堀田祐美子用語)ことで、とりあえずゼニのとれるカードに仕立てようという狙いはそう悪くないと思うのだ。

しかしわたくし、1.4の柴田・後藤戦はあんまり気に入らなかった。なかよしを超えた「やおいプロレス」を見せられたようで鼻白んだのだ。盤石の信頼関係のもとにご両人は気持よくハードヒット、そりゃあ現象を見てるぶんには面白いんだけど、この2人の関係性がいかにアレかを見せつけられてオレはどうすりゃいいんだという気分になったのは事実だ。

実はこの試合、評判が非常によかった。ドーム大会のベストバウトとする人も多い。オレは、この世間の反応に小さくない違和感を感じる。同時に、今の新日の栄華を見て文句ばっかり言うてるオレの如き昭和の老害はくたばるしかないんだろうなとも思う。ただまあ、くたばる前にちょっとブログ書くくらいはいいだろ。

試合後に柴田と後藤がリング上で交わしたという会話が凄いんだ。雑誌kaminogeで柴田本人が語ったところによると、

「プロレスってこれだよな? プロレスってこうだよな?」
「これだ、これだよ、俺はこれがやりたかったんだ」

もうお前ら一緒の墓に入っちゃえよ! という思いとは別に、彼らには悪いんだけど、正直言ってオレは「これがプロレス」だとはあんまり思わないのだ。プロレスの一部ではあるだろうし、こういうのがあってもいいとは思う。しかし盤石の信頼の上にいくら試合がスイングしても、それはそうだろうよと思うのである。ちなみにこのブログで「これがプロレス」を検索してみたところ、わたくしが過去に「これがプロレス」と評した試合が2つあった。まずは2009年の船木誠勝プロレス復帰戦。自分のエゴで相手も客も振り回す船木さんの傍若無人ぶり。そしてもうひとつ、2011年大晦日の桜庭柴田組。プロレスの枠内でアマ格闘家を自在に転がして恐怖を植えつける桜庭の実力。ともに「盤石の信頼関係」とは程遠い試合だ。

オレの友人は、柴田・後藤戦を「性善説プロレス」と評した。信頼関係という信仰を共有する者同士によって際限なくスイングしてゆく「いい試合」。対して、オレが「これがプロレス」だと思ったのは上記2つの「性悪説プロレス」だった。猪木育ちなもんで、こればっかりは勘弁していただきたいところである。

オレは、プロレス史の上では性善説プロレスの教祖は小橋建太ではないかと思う。現在の新日の輪郭を作り上げたのは、小橋の影響を強く受けたであろう棚橋弘至である。我々観客同様、プロレスラーたちにとっても小橋は特別な存在だったのではないだろうか。

性善説という面白みのない土壌からなぜか生まれた奇形の大輪の花・小橋は、オレにとっても特別な存在だ。あんなに面白くないレスラーは珍しい。同時に、あんなに存在そのものに感動してしまうレスラーも珍しい。小橋自身の個人史をあえて無視して言えば、プロレス界において小橋は明らかに「天然」だった。天然ゆえにかけがえのないプロレスラーだったのである。だからオレは、他のレスラーが小橋の影響を受けることをあんまりいいことだとは思わない。小橋にはなれないよ。

異常な職業倫理(プロフェッショナリズム)に支えられていた四天王プロレスの全盛期、三沢も川田も田上も、実に憂鬱そうな、切ない表情で入場してきたものだった。これから確実にしんどい試合をして確実にひどい目にあうんだから当然で、あれは実に人間的な顔だったと思う。でも記憶の中の小橋だけは、いつもやる気MANMAN吉田照美、充実した顔で入場してくる。究極のブラック企業全日本プロレスが生み出した、史上初の純度100%の馬場直系プロレス人間、それが小橋だ。

ただ、そんな小橋にしてもハンセン、ウイリアムズ、ベイダーといった、場合によっては信頼関係を失いかねないカテエ相手との間にもプロレスを成立させてきたのだ。それも一切の近道を使わず、試合だけで自分を認めさせてきた。小橋は少なからずフィクションを含むプロレスという稼業を、フィクションとして演じきるのではなく、現実として生きてしまったように見える。だから引退した今、小橋は空っぽですよ。生まれたての赤ちゃんみたいになってるんじゃないだろうか。だから奥さま、どうか小橋のこれからをよろしくお願いします。

1.4に話を戻すと、意外によかったのがオカダ・内藤戦だった。オカダはメインを奪われた中邑・棚橋によるIC戦に試合内容で勝たねばならぬ、それがオカダの目線である。なのに肝心の対戦相手はどうにも使えない、箸にも棒にも引っかからない内藤先輩。内藤はウワ言のように「おれは、IWGPの、ベルトを、とる。しんにほんの、しゅやくに、なる。おれは、おれは、ゆめ、ゆめを、かなえる」などと口走るだけで、まるでアホの子だ。オカダとは目線が全然違う。こんな奴とのタイトルマッチで内容を問われるという状況がオカダにプレッシャーを与え、試合にはどこかオカダの苛立ちが透けて見えるのではないか… と、まあそのようなヨコシマな目線で見たところ、結構面白かったのである。内藤が信頼を裏切り仕掛けてくるかもしれない「危険な相手」だからではなく、むしろ内藤は一生懸命いい試合をしようとしてるんだけど、悲しいかな抜きん出て「できない相手」だったからこそオカダにかかる負荷を見出すことができたという、極めて倒錯的な面白さのある試合だったと思う。

オカダとかいう若造なんか全然わからんばい、と再三言ってきたわたくしですが、それでもオカダのツームストンパイルドライバーが出ると「あ、そろそろ終わりだな」と思ったりする程度には飼いならされてきており、何よりここ2年ほどかけて徐々に立場に追いつきつつあるオカダを見ることがまんざら不快ではなくなってきているのだ。とりわけブシロードのCMにおけるオカダは成長著しく、最初は無表情のデクノボーだったのが最近はセリフ回しの微妙なニュアンスまで表現しようとしており、結構いいですよ。でも、レッド・インクはいただけないな。あれ、技をかける過程ですごい内マタみたいになるでしょう。上記友人の嫁さんなんかアレを「ゴム飛びみたい」と評しており、ぼかー衝撃を受けた。業界の盟主・新日本のトップレスラーの技が女の子のクラシックな遊びを連想させるものであってはならないと思うのですが、どうでしょうか。

「かぐや姫の物語」 追記

かぐや姫の物語」を自分は大いに気に入ったものの、友人や世間の反応は案外そうでもなく、平均的には「いいんだけどそれほど好きでもない」といったところだろうか。あの水彩画・スケッチ的なビジュアルに関しても、ああいうアニメを作るのは大変なのかもしれんけど、それが特に嬉しいかといえばそうでもないという反応。まーデジタル技術を駆使してアナログ風ルックを獲得するというのは一種の酔狂で、マイケル・チミノが巨額の予算を投じてわざわざ貧乏臭い風景を完全再現した「天国の門」にも似た壮大なる愚挙なのかもしれない。高畑監督にとってはセルアニメのシステムは絵を動かすための妥協の方便だったのかもしれないが、こちとらガキの頃からのセルアニメ育ち。背景から浮き出した、クリアな描線でパキパキに塗り分けられた美麗なキャラクターこそがアニメにおけるゴージャスであると見做す文化的コードが脳髄に染みこんでいるのも事実である。

かぐや姫の物語」が高級な懐石料理であってカツ丼ではないから人気がないのかとも思ったのだが、いやいや、そう単純な話でもなさそうだと今は感じている。以下、前回エントリ後の追加感想。ネタバレなので一応畳んでおきます。

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観たぜ「かぐや姫の物語」

高畑勲の新作「かぐや姫の物語」、正直言ってあんまりテンション上がってなかったのだけど、観てビックリ聞いて仰天の大傑作でしたよ。皆さん劇場で観たほうがいいです。大丈夫、いくらヒットしても赤字です。でも、時間さえかければ回収できなくもないと思う。そう思うほどの、これはひとつの国民的な古典、スタンダード、定番、教科書、マスターピース、唐揚げ定食となり得る作品だった。以下、CinemaScapeに投稿した感想。ネタバレあるので、未見の方々は決して読んではなりませぬぞ。

「竹取物語」の映像化を夢見ていた、亡き円谷英二に観せてあげたい。 (★5)

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あまりにもひどい「夢と狂気の王国」

高畑勲の新作「かぐや姫の物語」も観たのだけど、これが思いのほか素晴らしく、感想を書くのがちょっとたいへんなので、とりあえずハシゴして観たこちらの感想を先に。どこぞのクソ女が撮った、スタジオジブリのドキュメンタリー。日テレやNHKが取材したジブリ関連のドキュメンタリー、或いはメイキング番組がいかに普通にちゃんと作られていることか、これを観れば誰にでも判るだろう。なにしろ、まるでお話にならない。できることなら、金を返してほしい。その金でもう一度「かぐや姫の物語」観てえよ。

ナマの狂気見せたろか (★1)

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「機械男」 マックス・バリー

機械男

機械男

なんとなく気になって、手を出してみたSF小説

民間企業のギーク研究者が、事故で片足を失う。義足の機能に到底満足できなかった彼は生身の足を超える能力を持つ「よりよい足」を開発し、装着。そのまま研究にのめり込み、体組織をひとつ、またひとつと「すぐれた機械」に変えてゆくのであった。

この小説が明らかに絶大な影響を受けている映画「ロボコップ」では、人間マーフィは死を通過してロボコップになった。映画「攻殻機動隊」では、冒頭からすでに少佐は義体化されている。本作の面白みは、主人公自らその体を少しずつ機械化してゆくエスカレートの過程にある。義足は技術的に時代遅れで、不完全だ。そもそも生身の足だって不完全だ。技術を集約すれば、人間以上の足ができる筈だ。斯様な思考がいかにもギークらしく、読んでて楽しい。技術的に可能なことは即やっちまう感じも楽しい。オレは涙を流さない、ダラッダー。ロボットだからマシンだから。

後半にはエンタメ小説らしく荒事が展開され、それらしいオチに続くのであるが、後半はあんまり気に入らない。恋人とのアレコレとか軍需産業の思惑とかどうでもええねん、ギークギークらしく何でもかんでもすごい科学で解決しろよ、ご自慢の「魔法のようで革新的なデバイス」でなんとかせんかいと思わざるをえない。この小説はダーレン・アロノフスキー監督で映画化の話が進んでいるらしい。銀幕ではギークらしくラム・ジャムを炸裂させてほしいものである。

印象に残った段落を引用。

ぼくはいらだった。店に行けば300ドルでゲーム機が買え、戦場で戦車を操縦する感覚をジャイロスコープ内臓のデュアルフィードバック・レジスタンス・コントローラーが振動と反発力により18通りに模倣してくれる。なのに、腕をなくした人に触覚を取り戻させることには誰も関心を持たない。腕のない人には1970年代に造られた鉤爪があるじゃないか。それでいいだろう、というわけだ。技術はあっても、間違った場所にある。非効率と同じくらいぼくをいらだたせるのは、倫理ではない。資源の不適切な配分だ。ぼくだって、企業が1億ドルを注ぎこむのはゲーム機のコントローラーであって、人に感覚を取り戻させてくれる義肢なんかでないことぐらいわかる。でも、そういう“関心の欠如”を読むたびに、誰かを蹴飛ばしたくなった。

さてここ1年以内の話であるが、わたくしわけあって義肢装具の職人さんと話す機会が幾度かあったのである。それまで全然知らず興味もなかった義肢の世界、職人さんの話には蒙を啓かれることばかりであった。

下腿切断だの大腿切断だのの足の「断面」と義足を繋ぐ部分は、硬い素材(FRPだったりカーボンファイバーだったり)が足をくるむコップのような形になっている。このコップに、足の残された部分、太腿だったり脛だったりを差しこむわけだ。全体重を受け止めるこの部分はソケットと呼ばれ、足の形にピッタリ合ってなければならないので作るのが難しい。うまく合っていれば、広い接触面で満遍なく体重の負荷を支えられる。合ってないとごく狭い接触面に負荷が集中し、痛くて歩けないというわけだ。

 上部が「ソケット」で、ここに足を差しこむ

患者の足の断面からとった石膏の「型」をもとにしてこのソケットを作るわけだが、義肢作りの名人は職人的な、オレから見るとほとんど動物的な勘でズバズバ整形してゆく。そしてソケットは本人の足と幾度か仮組みされ、ご当人との問診を経て細かな修正が何度も何度も施されてゆく。そもそもの切断箇所が人によって違ううえ、キツメがいいとかユルメがいいとか人それぞれにお好みもあるため、万人向けの正解例といったもののない、手探りの世界なんである。さらに、切断から数年経てば筋肉が落ち、足の形も変わってゆく。だからせっかくできたお高い義足も、数年おきに作りなおさなきゃならんそうだ。

そういった現実を知ると、小説「機械男」のすごい科学で守ります的な楽観主義、現在においてはまだまだ絵空事と言えるだろう。しかし科学技術の進歩は早い。上記引用からの妄想だが、たとえばもし「Call of Duty」や「Grand Theft Auto」の開発費を、いやいやそれよりもクッソ馬鹿げた愚行の墓標である高速増殖炉もんじゅ福島第一原発の維持のために日本政府が毎年毎年ドブに捨ててる巨額の税金、あれをそっくり義肢の開発に充てることがもしできたなら、開発に世界トップクラスのギークハッカーNASAやHONDA、軍需産業の技術者たちが総動員されたなら、いったいどんなスーパー義足が、スーパー義体ができるだろうかと想像してみると、ま、正直言って僕ちゃんレベルの凡人には想像もつかないのだけど、そんなことにならない理由なら想像がつく。儲からないからだよな。世間の水は冷たいよ。

とりいそぎ

新生UWFよろしく月イチ更新などと言った舌の根も乾かぬうちにアレなんだけど、今月はあんまり書くことがなく。

10月6日の凱旋門賞は自分の中に久々に「祈り」が生じた競馬だったが、結果には溜息しか出なかった。あのレースを勝たねば解けぬ日本競馬の呪いが、またしても継続することになってしまった。2着オルフェーヴルと4着キズナは本当によくやったと思う。しかし10月の馬券は不調。

10月17日、極めて数奇な縁あって後楽園ホールのセンダイガールズ興行を観戦。女子プロレスにとんと疎くなったわたくしなれど、これも縁あってたまに観に行くOZアカデミーとは全然違う世界。完成されたユートピアのようなOZとは対照的に、まさに今、若手がヴェテランを凌駕してゆくダイナミックな変化の図を目の当たりにして大いに興奮した。それにしても、何かを持っている女子プロレスラーだけが持つ「初見の人間の心を掴む」力は凄い。里村の背景を知らぬ人にも、彼女が発散するなんだかタダ事ではない空気は確かに伝わっているのだ。そしてヴェテランのみならず、幾人かの若手の中にもこの力の萌芽を発見できた喜びは大きかった。広田さくらも面白かった。ありがたや。ありがたや。