競馬のこと

何もかもがうすぼんやりしたこの世の中で、言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズン、競馬ほど結果がはっきり出るものはない。競馬に負けたとき、人は金を失う。金を失うことで、負けたという事実がそいつの人生に刻みつけられる。やり直しはない。
競馬の負けは100%、自分のせいである。「東スポにこう書いてあったのに」「武豊が自信満々だったのに」「あの馬は連勝中だったのに」、レースが終わったあとに何を言っても言い訳にならない。負けたのは自分がヘボだったからで、他に理由なんてないのだ。その証拠にほら、さっきまでオレの財布に入ってたオレの金がなくなってるじゃないか。東スポが、武豊が、連勝中の馬が金を失ってるか? 失ってない。金を失ったのは自分なのである。負けをすべて引き受ければ、勿論傷つく。金を失う以上に、自分がヘボいという事実を突きつけられること、それを認めること、それを引き受けることの痛みが大きい。だけど痛みのピントをボケさせないために、失う金はシャレにならないものの方がいい。汗水流して働いてやっと手にした金こそ、賭けるに相応しい。失ったら生活が危ないくらいがいい。競馬法では学生は馬券を買っちゃダメとしているが、これは教育的な問題よりも「親からもらった小遣いを賭けても面白くないだろう」という意味でオレは賛成だ。規制には反対だが、子供が低レベルで競馬に関わることをオレはあまりお薦めしない。
誰だって傷つくことはイヤだ。賭ける以上勝ちたい。しかし、「傷つくのがイヤ」だからといって「傷つくからやらない」とはならないのだ。生きていると、いろいろと傷つくことがある。人は傷ついたとき、防衛本能からなんとかそれを誤魔化そうとする。自分を正当化しようとする。人を悪者にしようとする。或いは忘れようとする。或いは無関心を装う。
そういった誤魔化しが一切通用しないのが、競馬の世界である。当たり馬券は必ず売られている。それを買えなかったやつの負けだ。だから競馬は面白いのだ。はっきり言って、勝負レースで負けると死にたくなるよ。悔しくて悔しくて、夜も眠れない。最初は買った馬がなんで勝てなかったのかと思う。しかし競馬の結果の絶対性に突き当たり、今度はなぜこの結果を自分は予想できなかったのかと思う。自分の予想の甘さを徹底検証する。自分のダメさと正面から向き合う。電車賃もなくなって歩いて帰ったことも、2度や3度ではない。金がないから晩メシも食えない。空腹が自分の至らなさをキリキリと責めたてる。自分のダメさを、体で実感する。そして、自分が生きていることを知る。明日また生きるぞ!
競馬はその構造の中に詐欺性というか、麻薬性のようなものを持っている。競馬はどんな結果でも理由をつけられる。なんだこの結果、こんなムチャクチャな結果予想できるかよ! と思っても、これこれこうだからこうなったという理由をいくらでも後づけできる。展開、馬場、調子、騎手、作戦、気性などなど。競馬には無限の「実はこうだった」が存在する。だからレースが終わった瞬間、「こうすれば勝てた」という巨大な真実が出現する。これでよーし次こそはと思うわけだ。これは事前に競馬新聞を読んでもまったくわからない。競馬新聞には相反する予想がたくさん書いてあり、どれが正しいやら全然わからない。わからないようにできているのだ。そして、何かを正しいとする大新聞よりも、何が正しいのか報道の真偽さえわからない東スポのほうがマスコミとしてはより誠実である。いや、しかしマスコミ論は競馬が抱える多くのテーマのひとつにすぎない。