「馬」に賭けるということ

公営ギャンブルは競馬だけではない。競輪もあれば競艇もある。オートレースなんてのもある。
オートはやったことがないが、競輪と競艇はやったことがある。競艇多摩川競艇、競輪は立川競輪、川崎競輪京王閣競輪などに足を運んだ。そこで感じたことは、まず何よりも場の雰囲気が素晴らしいということだ。
競馬、特に中央競馬オグリキャップ武豊の登場以来、どんどんオシャレ化の道を進んできた。スタンドはキレイになりトイレは清潔になった。昔ながらの鉄火場のやさぐれた空気は影をひそめ、健康的なレジャーランド、テーマパークのイメージに近づいた。JRAのCMもその路線を推進した。
しかし地方競馬場や競輪場、競艇場には今なお鉄火場の空気が生きている。若い女の子なんか1人もいない。人生終わってるようなおっさんしかいない。レストランなんかない。屋台で売ってるのは串カツやイカ焼きだ。京王閣なんか、すいとんを売っていた。すいとんですよ、すいとん。戦後の闇市から一歩も進化していない。地方競馬川崎競馬場では、スリがボコボコに殴られてしょっぴかれる現場を見たことがある。油断しているとコーチ屋に話しかけられる。川崎競輪では70歳くらいの汚いジジイが裸足で歩いてた。競輪の野次は強烈だ。競輪は競馬に比べて競技者との距離が非常に近いので、負けて目の前を周回する競輪選手に直接罵声を浴びせることができる。煤けたおっさんが「バカヤロバカヤロバカヤロ死ねええええ!」と全身全霊で叫んでいるのを見た。金網を掴んだジジイが「自転車なんかなあオレだって乗れんだよ!」と叫ぶのを見た。金網によじのぼって、警備員に取り押さえられるおっさんも見た。事故か戦傷か、片腕のないおっさんがフック船長のような鉤爪の先に挟んでいる赤鉛筆をオレは見た。小奇麗になった中央競馬では味わえない、そこにはまぎれもなく「人生」の苦い味があった。
これだけで、オレの中では競馬よりも競輪の方を上位概念に置きたいくらいだ。「場」としてのみ言うならば、競馬場よりも競輪場のほうが圧倒的に面白く、魅力的で、緊張感に満ちている。いつの日か、オレもああいうおっさんになって野垂れ死ぬのだろう。それがオレの夢だ。
それでもオレはどうしても競輪に馴染めず、競艇にいたっては新聞の読み方さえ習得できず、競馬に戻ってきてしまった。それにははっきりした理由があった。競馬は馬がやっていることだが、競輪や競艇は人間がやっていることだからである。オレは心の小さな人間だ。競輪で買った選手が負ければ、車券の負けは当然100%オレに責任があるのだが、それでも心のどこかで「あの野郎のせいで」と思わずにはいられない。それは明らかに逆恨みで、逆恨みというのは非常にまずい精神状態なのだ。競馬も全局面で人間が深く介入しているギャンブルだが、決定的に罪のないイノセントな存在である馬、物言わぬブラックボックスである馬の存在がオレを救ってくれている。いくらなんでも、自分が予想を外したからって、わけも判らず鞭打たれて走らされている馬たちを責められるわけがない。非常にアテにならない動物というものに金を賭けているという前提があって、はじめてオレは負けを自分の責任として引き受けることができるのだ。これはまったくショボい話だ。恥ずかしい、情けない話である。情けない話ではあるが、これもギャンブルを通して自分と向き合い、限りないモノローグ、無数の自問自答の果てにはじめて判ったことのひとつだ。競馬はかっこいいものではなく、かっこ悪い自分を見つめる覚悟そのものだ。そして若い女性が競輪や競艇に行きたいと言うならば、キチガイばっかりで危ないからおやめなさいと答えます。