天才による「ケムリクサ」、サリエリたちの「けものフレンズ2」

諸事情あって東京を去り、生まれ故郷に移住することになった。引越しの日が目前に迫っているが、腐海の如きアパートの自室からゴミを出すのに疲れ果て、荷造りも始まらぬうちに、とりあえず現実逃避すべくこの記事を書いている。雑な文章だが許していただきたい、オレは引越し準備で忙しいんだ。ああ忙しい。

2019年の1月~3月の深夜アニメは、アニメ史上に残る面白さだった。言うまでもなく同じクールでぶつかった「ケムリクサ」と「けものフレンズ2」のことである。

2017年の第一期「けものフレンズ」は腰抜かすほどの傑作であり、たつきというアニメ作家の衝撃的な商業デビューだった(同人では有名だったらしい、よく知らないが)。「9.25けもフレ事件」*1(このネーミング最高)を経て、たつき監督の新作「ケムリクサ」は2019年1月~3月に放送された。そして「ケムリクサ」と同時期にぶつけて放送されたのが、制作体制を一新した「けものフレンズ2」だった。その結果は皆様がご存知の通りである。

「ケムリクサ」は腰抜かすほどの傑作だった。アニメとして傑作なのはさておくとしても、オレが感心したのは作品テーマの今日性、たつき監督が見事に時代を掴んでいることだった。終わってしまったこの国の数知れぬ理不尽の中で、あきらめずに生きること。過酷な世界で、自分だけの生きる理由を見つけること。やさしさを失わないこと。寛容であること。愛すること。本当に大切なもののために、自己犠牲を厭わぬこと。

オレの見立てでは、たつき監督の才能はスタンリー・キューブリック級だ。いつハリウッドに引き抜かれてもおかしくないと思う。彼の年齢は30代半ばらしい。ハッキリ言って宮崎駿が「未来少年コナン」で演出家デビューしたのが35歳とか36歳、黒澤明が「姿三四郎」で監督デビューしたのが33歳だからね。判るだろ? そういうことだ。

対して、「けものフレンズ2」は商業アニメ作品として破格に不出来だった。しかしアニメのデキよりヤバいと思ったのは、作品を通してあらわになった作り手の思想と感性だ。他者を信じないこと。バカにすること。蹴落とすこと。そして最も冴えたやり方は、差別し、支配し、切り捨て、操ることで他者を自分の思い通りに動かすことである。嘘偽りなく「けものフレンズ2」にはこのようなメッセージが溢れており、本当に驚かされた。言語化せずとも作り手がそう「生きている」ことが、作品に残酷なほど表れている。「けものフレンズ2」を観てないそこのあなた、いくらなんでもそんなアニメがあってたまるかボケ、と思うことでしょう。あるんだよ。ホントにホントだ。

たつき監督の凄まじい才能と善良さを、たつき監督を排除した「けものフレンズ2」が結果的に証明してしまった。これだけでもたいへん面白い現象なのだが、「けものフレンズ2」の作り手たちは作品外の現実世界でも悪意の痕跡を大量に残してしまった。これがネットに巣食う好事家たち、及びわたくしの御馳走になっているのが現状である。2階席から見る場外乱闘はホントに面白いよな。

オレは、たつき監督を「けものフレンズ」から追放した連中の気持ちが、少し判るような気さえするのだ。映画「アマデウス」*2で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトその人と出会ってしまった宮廷音楽家アントニオ・サリエリの気分だろうと思う。たつき監督ご自身は、こう言うちゃ申し訳ないけど冴えない感じのおっさんだ。同人あがりのCGアニメーターで、商業での実績は「てさぐれ!部活もの」ぐらい。そりゃけものフレンズプロジェクトでなくたって誰だって、こいつチョロい、コントロールできると思いますよ。ボンクラ新人監督を激安でこき使ってやろうと思いますよ。それがまさか、中身モーツァルトだとは。サリエリがモーツァルトを追い込んだように、連中がたつき監督をその才能ごと、才能ゆえに憎悪したとしても驚かない。それが我々受け手から見ても丸わかりというのは、きょうび脇が甘すぎるよな。「アマデウス」劇中のサリエリは、炎上せずに済んだ。ウィーンにネット回線がなく、宮廷にWi-Fiが飛んでなかったからだと思われる。さすがにサリエリとて悪意を自分の作品にこめて音楽の神聖を汚すようなことはしなかった。それでも、老いて自分の作品が世間から忘れられた後もサリエリは、モーツァルトの音楽が時代を超えて愛され、讃えられるのを目の当たりにしなくてはならない。時間に劣化されないモーツァルトの音楽と、それを愛した民衆が、時空を超えてサリエリを裁く。「すべての凡庸なる者たちよ、お前たちすべてを赦そう」とサリエリは言う。きっと「けものフレンズ2」の作り手たちも、サリエリに赦してもらえるに違いない。オレは許さない。

この「けものフレンズ2」騒動の中、テレビ東京のプロデューサーが批判対象の中心的人物になった(それにしてもこの騒動は批判対象が多すぎるのだけど)。オレの経験から言って、この人は確かにひどいがこの人に限らずPというのは十中八九ろくでもないものだ。その中でも局P、これはもう例外なく全員がクソである。そもそもプロデューサーというのは、システムの構造からしてどうしたって多かれ少なかれクソにならざるをえない役職なのだ。それは多くの場合、創作者ではないのに創作者以上の権力を持つことに起因する。実際、いろいろうまく回すためにはそんなクソなプロデューサーが役職として必要なのである。これは制作システムが必然的に抱えるジレンマであって、一種の必要悪なのだ。ゆえにプロデューサーとは悪であることを引き受ける存在であるし、優秀なPは自分が悪であることに自覚的だ。まれに「クソで申し訳ない」とすまなそうにしているPも、いるにはいる。だが局Pにはいない。少なくとも見たことない。

この騒動を、オレはゲスな気持ちで大いに楽しんだ。いや、今も進行形で楽しんでいると言わざるを得ない。これはオレが普段軽蔑しているワイドショーの感覚そのものだ。「けものフレンズ2」の瘴気が、自分の中の最もゲスな気持ちを引き出してみせたのだと思う。ズバリ言って、人に「けものフレンズ2」はお薦めしない。画面から発散される悪意と憎悪と不可解さで、体調を崩してもおかしくない代物だ。しかしアニメ史上類を見ない、極めて特殊な作品であることも間違いないのだ。「ケムリクサ」と「けものフレンズ2」を並行して観ていた今年アタマの3ヶ月間は、「生涯に一度きりの」「特別な」「かけがえのない」「極めて貴重な」体験だったと思う。二度とゴメンだけど。

ケムリクサ 1巻[上巻] [Blu-ray]

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アマデウス 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ&DVD(2枚組) [Blu-ray]

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*1:http://dic.nicovideo.jp/a/9.25%E3%81%91%E3%82%82%E3%83%95%E3%83%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

*2:言うまでもないが映画「アマデウス」はフィクションです

陰毛とワキパイパイとわたくし

あらゆる表現は規制されてはならぬとオレは思っているが、エロ表現に対する規制を訴える人は少なくない。しかしオレは、そんな規制には反対だーなどという当たり前のことを今ここで書きたいわけではない。

思えばオレが未成年だった昭和の時代、猥褻とは陰毛を露出することであるとされていた。陰毛が見えただの見えてないだのでしょっぴかれる出版関係者が時々いたと記憶している。平成になると篠山紀信が陰毛ありの写真集を発表し、これが摘発されなかったことから陰毛写真集が流行し、「ヘアヌード」なる珍妙な和製英語がまかり通るようになった。しかし昭和に地方都市で子供時代を過ごしたオレの感覚では、陰毛とはどこか滑稽な、間の抜けた、みっともない、野暮ったい愛嬌を感じさせるものだった。今に至るまで、陰毛それ自体に性的興奮を覚えた記憶はない。しかるにこの社会には、陰毛が見えたと言っては目を三角にして怒り狂う「立派な大人」が少なくないらしかった。どうも奴らにとっては陰毛こそがエロの象徴、極めて猥褻、観音様ありがたやな存在に思えているらしいのだ。奴ら自身が陰毛に狂おしいほど興奮するもんだから、年若き青少年ちゃんがインモーなんぞを目撃した日には性が乱れに乱れて少子化も解決しちゃうに決まっておる、と頑なに思い込んでいるらしい… ということをオレは知った。そして当時も今も、オレは全然そうは思っていないのだ。オレの見るところ、あれはただの毛だ。

昔からオレは不思議に思っていたんだ。エロを規制しようとする人は、なぜあんなにも無防備なのだろうか。これはエロい、教育に悪い、子供に見せられない! と主張することは、要するにこれがエロいと私は思っている、これが私を興奮させ背徳的にさせる、射精させるビチョ濡れにさせる、と主張することに他ならないと思うからだ。そんなこと、こっ恥ずかしくてオレなんかとても人前では言えねえ。美少女ちゃんの体操服姿だけがこの世で最も美しいなどとは口が裂けても言えねえ。連中には性癖を告白している自覚がないのだろうか。そこは都合悪いから考えないようにしているのだろうか。表現規制にお題目として「青少年のため」という正義めいたものが乗っかってるのもよくない。自分を正義と思いこめば、人は無防備になる。規制の理由を強弁するほど、自分の性的嗜好を衆目に晒してしまう。

このことを、漫画家の相原コージ先生・竹熊健太郎先生は早くから指摘しておられた。「サルでも描けるまんが教室」の第何版かに収録されたおまけ漫画「条例ができるまで」である。
https://note.mu/kojiaihara/n/n5b9341167623
この漫画で断固「ワキパイパイ」の表現を禁じようとする立派なジジイは、オレにとって忘れがたいキャラクターだ。いったい、どのように心を病めば人はワキパイパイ撲滅派になってしまうのだろうか。同情を禁じ得ない。

表現規制は社会にとっての害悪でしかなく、規制を主張する方々は困ったちゃんだなーとオレが思っているのは本当だ。しかしその一方でエロ規制派の方々のこのような無邪気さ無防備さ無自覚さを、どこか味わい深いというか、少しだけ微笑ましく思うような気分が自分の中に生じつつあるのをここ数年感じている。自分の尻尾を追っかけてぐるぐる回っているアホな犬を可愛らしいと思うような心持ちをちょっとだけ感じている。もちろんオレは昔も今も、エロ規制は世の中を悪くすると思っている。たかが陰毛ぐらいでビンビンに興奮していちいちカウパー垂れ流さないでくれと心から思っている。しかしそれでも、躍起になってワキパイパイを禁止しようとする連中も含めての「社会」ではあるんだよな。この頃は、そんな気分なんだ。

意外や楽しめた「未来のミライ」

今ごろレンタルBDで「未来のミライ」。細田守監督は「時をかける少女」は気に入ったものの、以後の作品はどれも気に入らず嫌いな監督の部類だった。さらに「未来のミライ」は世評も非常に悪かったので、腹立つんだろうなあと思いながら観てみたところ、意外やけっこう楽しめてしまった。

「未来のミライ」スタンダード・エディション [Blu-ray]

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インテリ幼児プレイ (★3)


話はほぼ連作コント。内容がクソしょうもなくて、正直言って楽しく観られた。細田守らしい歪みも勿論あって、横浜市磯子区にオシャレなだけの欠陥住宅を新築する悪徳建築士とか、尻穴に尻尾を突っ込んで小児性欲に目覚める肛門期の幼児とか、JK妹のクソしょうもないツンツン攻撃に内なる獣が目覚める幼児とか、劇団イヌカレーのできそこないのようなJR東日本駅員とか。あっこれマジメに観なくてもいいやつだ、と観てる側のオレの脳もいきおい幼児化しまちゅ。


冒頭、横浜の空撮カットには息を呑む。ただのパンダウンと思いきやカメラは浮遊しており膨大な住宅群が3Dで浮かびあがってくる。ただ細田監督、出来がいいからって何度も何度もこれやるんだよな。君そういうとこあるぞ。気をつけていただきたい。


前作「バケモノの子」では、登場人物が突然テーマめいたセリフを深刻ぶって読みあげる(文字通り、セリフを読んでる感じにしか受けとれない)場面で鼻白んだものだった。今回もJKが同じようなことをやるんだけど、びっくりするほど普通の内容を適当に喋ってるだけで、そもそも話がクソしょうもなさすぎるので耳障りにすらなってない。なにしろ脳が幼児化してるから気にならない。


今回も白バックでパラレル時空の系統図みたいなのが出てくる。つくづく細田守は「図式」の作家だ。図にすれば君たち愚民にも判るでしょ、ホーラあっちにパン、こっちにパンですよ的なイヤミが常に作品にまとわりつく作家で、実は図式でしか世界や人間を理解できないのは細田守自身であるような雰囲気も濃厚で、オレはあんまり好きじゃない作風なのだけど、今回みたいなクソしょうもないコントでも頑なに図式やるんだ、やっぱりケモナーやるんだJK出すんだ赤ちゃんフニフニするんだ、ここまでくるとなんだか細田監督の「業」のようなものを感じてあんまり腹も立たなかった。しかしアニメ業界でもかなり頭よさそうな細田監督が、愛されない作品を連発した挙句にたどりついたのが幼児でちゅアバババの境地とは、やっぱり業の深い人なんだなと思いました。

今ごろ「アナと雪の女王」

アナと雪の女王 MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]

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今ごろになって「アナと雪の女王」をBD鑑賞。この映画が日本でヒットしたのは2014年で、もう5年前のことだ。オレは昔から今に至るまでディズニー映画がおおむね嫌いで、この映画にもあまり関心がなかった。ヒットした主題歌が街やメディアで流れるたび、なんとなくわずらわしく思っていた程度だ。それでも5年経ちヒットの熱も世間から冷めてきたこの頃合いで、ちょっとしたきっかけもあって観てみた次第。自分には、これぐらいの距離感がディズニーとは必要なのだと思っている。

性 (★3)


慕っていた姉と生き別れになり、十数年ぶりに再会できるその日に姉のことなど念頭になく、「運命の人」を探し回る妹。唐突に出会った田舎王子を逆ナン。色を知る年齢(とし)か! 十数年幽閉され青春を奪われた姉に向かって、何不自由なく生きてきた妹が「こんな暮らしはイヤ」とか普通に言ってのける。彼女の言動は完全にサイコパスで、能力によって怪物と化す姉以上に深刻な問題を抱えた存在として描かれている。雪ダルマに「君は本当に愛を分かってない」と言われる場面があることからも明らかだ。勿論、ディズニーは登場人物をあからさまなサイコパスとして描いたりはしない(これをナチュラルにやるのは米林宏昌監督作品だ)。厳重にオブラートに包んだうえで、ハチミツをぶちまけてお出しするのがディズニー伝統の品質管理だ。


この映画で最も気合いが入っているシーンはなぜか前半にあり、姉が山に氷の城を建てるくだりだ。レリゴーのやつです、レリゴーのやつ。能力を縛る手袋、玉座に縛る王冠、寒さを防ぐマントを次々と捨てさり、それらに一瞥もくれぬ姉。容赦なき攻撃性を纏い、我々に対して叩きつけるようにドアを閉じる。能力を振るうことにもはやためらいはなく、女王を辞め国を捨てる決意、さらには人間をやめ魔女となって世界を拒絶する覚悟を十全に表現しており圧巻だ。歌以上に、映像(芝居)で表現している場面なのである。姉は新たに氷のドレスとマントを纏う。これってアメコミにおける「怪人(ヴィラン)」の誕生なんだよな。シュワルツェネッガーのミスター・フリーズよりイケてるぜ。言うまでもなく有名な日本語詞の「ありのままに」は悪意ある誤訳であって、let it go は「もうええねん」みたいな感じなのだ。ゆえに日本語吹き替え版では、この場面の表現する絶望、覚悟、それがもたらす解放といったニュアンスは全滅しており極めてしょうもない。OLの自己実現の歌じゃねえんだよな。


タイトル「frozen」とは「凍った」ってことだが、他の意味もある。「冷淡な、冷酷な」「身動きできない、すくんだ」「固定化した、凍結した」など。ちょっと変化させた「frigid」では「不感症の」となる。不感症、勿論これは医学用語でさえなくて、性的な問題を示す古くさい言葉だ。しかしこの映画の核を表現する言葉でもあると思う。ホットなセックスから最も遠い場所にいる、冷たい女のイメージ。色を知る妹とは対照的に、姉はセックスと無縁の存在だ。男性を愛するかもしれぬ兆候すら見られない。性への嫌悪というよりも、性に無関心なように見える。しかし昔むかしの王家の姫なんて、結婚することと子供を作ることが仕事だった筈だ。男性を愛せない姉が、女王の義務として結婚し、夫とセックスして子を産まねばならない。これは耐え難いことだろうな。「オレは人間をやめるぞ! ジョジョーッ!」となってしまうわけだよ。一方でサイコパスではあるものの惚れっぽい妹は子を産むことに抵抗なさそうで、国家の「望ましい女王」像に近い。対照的な姉妹の性にまつわる相克が、この映画の中心的なテーマであることは疑いようがない。


それなのになんだこれは。映画はこれら深刻なテーマを放り出して極めていいかげんな、嘘まみれのハッピーエンドで締めくくられる。姉を出戻りさせるにあたって、彼女がヴィランとなるあの場面を超える熱量を示した者はいない。問題は依然あるのにまるで何かが解決したかのような、どいつもこいつもニコニコ顔。台無しにも程がある。とりわけ、怪物問題がぞんざいに扱われることは耐え難い。オレが不思議なのは、毎度こんなグダグダ映画ばかり作っててディズニーのスタッフたちは欲求不満にならないのか、ということだ。レリゴーの場面で力尽きたのかもしれないな。

飯塚、引退

オレは今のブシロードプロレスにさしたる魅力を感じない昭和の老害なれど、2月21日の後楽園ホールで飯塚高史が引退すると聞き、久々に心にザラザラしたものを感じている。引退興行を観戦する予定はない。

飯塚孝之(旧リングネーム)は、どうにも使えないレスラーだった。けっこう端正な顔つきをしていたので、新日は次代のスター候補生として飯塚にサンボ留学、長州とのタッグ、ドラゴンボンバーズなどチャンスを与え続けたが何をやってもパッとしなかった。1992年、ヨーロッパでの海外遠征から帰国した飯塚は、リング上からスーツ姿で闘魂三銃士への挑戦を宣言した。それだけでは終わらず、当時テレ朝深夜のクソ番組「プレステージ」にゲスト出演していた三銃士に、別場所からの中継で挑戦を申し込んだ。緊張しながらも精一杯凄んでみせた飯塚に対して三銃士は失笑、或いは鼻で笑ったものだ。特に橋本はひどくて「メッチャ緊張してんじゃん」などと笑い転げていた。このへんで飯塚という男が生涯背負う「レスラーとしての格」が決定してしまった感があった。

「まるで木村健吾のようではないか」、当時のオレはそう思った。プロレスに向いてないし、才能もないのにプロレスラーやってる人の象徴が木村健吾だった*1。しかし、木村健吾より飯塚はいくらか顔が良かった。ゆえに、実にもったいない感じがしたのだ。そこでいったいどうすれば飯塚が光れるのか当時のオレは考え、全日移籍しかないという結論に至った。有望な若手だった小橋(当時アジアタッグやってたぐらい)と何度も対戦して全部負ける。そうでもしないと光らないだろうと思ったのだ。しかし同時に、飯塚さんに移籍などという思いきった行動をとる理由も根性もないことは判っていた。

三銃士への挑戦はウヤムヤになった。1995年10.9東京ドームでのUインター対抗戦では、まだ若くヒョロヒョロだった高山善廣にコロリと負けた。以降数十年にわたってファンの記憶に残り続ける大一番で、前途有望な若手に白星を献上する役に回されたのだ。以後、悪夢の如きJ・J・JACKS、山崎隊などを経ても飯塚さんはいっさい化けることなく、順調に窓際おじさんとなっていった。箸にも棒にもかからない汚れ仕事にくすぶりながら、とはいえ燃えあがるような実力には欠けている彼の佇まいに、いつしかオレは認めたくない自分の姿を重ねるようになっていた。この感覚は、木村健吾の時にもあったものだ。彼が自分でどう思ってたかは知らないが、飯塚がリングで見せていたのは腕がないため使われてすり減ってゆく我々大衆の姿だと思った。人生うまくいかないすべての人々の姿だと思った。まー正直言って、金を払って見たいものではない。

2008年のヒールターンは、新日本プロレス暗黒期から好況期への曲がり角にあたる重大な出来事だ。天山と友情タッグ結成からの裏切り、小島の登場に至る展開は、追いこまれた新日本がとうとうゲロったということを誰の目にも明らかにした。新日本プロレスの本質が演劇であり茶番であること。レスラーたちが演者であること。もう二度と強いとかキングオブスポーツとか言わないということ。ホントに強いブロック・レスナーなんか永久に呼ばねえということ。飯塚のヒールターンにまつわる一連の展開は、オレにとって高橋本よりも大きな出来事だった。猪木の格闘技路線に傷つき悲鳴を上げていたプロレスファンの多くが、この方向を支持した。オレは支持できなかった。飯塚が社畜ヒールとして会社の言われるままに仕事をこなせているリングが、人間の本質とは何の関係もない場所であることは明白だったからだ。言葉は台本に書かれた台詞となり、それを噛まずにゆっくり棒読みできるやつが重宝されることになった。棚橋弘至といういち早くゲロったレスラーが以後10年、新日の空虚なサル芝居を牽引することになる。

10年間ひと言も喋らず、やれと言われたヒール像を来る日も来る日も演じてきた飯塚高史。平成の最初から最後までひとつの会社に勤めあげた飯塚が引退することでひとつの時代が終わるのだ、などと書けばそれっぽいのかもしれぬが、オレは全然そうは思わない。木村健吾と飯塚高史が昭和と平成を彩った、パッとしないレスラーの系譜は現代にも脈々と生きている。後藤洋央紀さんがそれである。プロレスがいかに変質しようとも、どうにもパッとしない、いまいち凡庸なレスラーはいつの世にも消えることなく存在する。そして、彼らの仕事を嘆く前にオレは自分の人生を心配するべきだ。だから彼らを見るたび、オレの心はザラザラするのだ。

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かつての飯塚&天山

飯塚高史 「IRON FINGER FROM HELL」 Tシャツ L

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*1:オレは反選手会同盟が好きだったが、木村健吾も好きだったかと聞かれると困る

末世に現る 「大仏廻国 The Great Buddha Arrival」

1934年(昭和9年)に公開された映画「大仏廻国 中京編」(監督:枝正義郎)は部分的天然色、スタンダードサイズのトーキー作品だ。戦争で焼けたのか、フィルムは現存しないとされている。いつかどこかで見つかったらいいなと思うが、フィルムの存在は確認されていない。せめて映画を観た人の証言を聞いてみたいものだが、たとえば公開当時20歳でこの映画を観た人は2018年現在では104歳になってるので、なかなか難しいと思われる。

特撮の原点 帰ってきた『大仏廻国』(資料編)

この「大仏廻国」を現代にリメイクしようとするクラウドファンディングを知り、何も考えず即座に3000円を入れたのが去年の5月。このプロジェクトの目標金額は500万円だったが、募集が終了した時点の支援総額が12万9000円。あーこれはダメかな、残念だなあと思っていたところ、どうやら別のクラウドファンディングサイトでの募集がうまくいったようで、めでたく映画は作られた。そして昨日、3000円ぽっちだが出資者であるわたくしは大宮で行われた上映会に行き、2018年の「大仏廻国 The Great Buddha Arrival」を観てきた。


豪華キャスト続々!映画『大仏廻国 The Great Buddha Arrival』予告編2

聞くところでは今回オレが観た作品はまだ決定版ではなく、このような試写を重ねては観客の意見を聞いて再編集、再々編集と直してゆくらしい。最初の試写は12月8日で約75分、観客のご意見を受けて22日バージョンでは大胆に切って約55分とのこと。是非クラウドファンディングのメッセでご意見をどうぞ、と言っていただいたのだけど、ここに感想を書く。本当に申し訳ないが、正直に書く。書く前に大前提をハッキリさせておくが、映画を作るやつが凄いのであって、たかだか3000円出したぐらいで家でゴロゴロしてたら映画ができたらしいので試写に呼んでもらったうえにゴチャゴチャ不平を言うやつが凄くないのである。家で寝てれば楽チンだろうに、自分の名前で莫大なエネルギーを費やし映画を作って広く世に問う、これが立派でなくて何なのだ。そういう立派な「創作者」に向かってオレの如きクズがものを言う以上は、せめて正直であらねばならない。以下は「大仏廻国」 2018年12月22日バージョンの感想。箇条書きで失礼、見当外れならご容赦を。

  • 問題を感じた部分は多かった。最大の問題は、主人公「村田」の造形がボヤけている、というより造形がちゃんとなされていないことだと思う。彼はテレビ番組(地上波からBSCSネット番組までいろいろあるが)を制作するスタッフ、たぶんディレクターなのだが、その番組がどこまでできていて、彼が何をやっていているのかが全然判らない。アバンで、彼は宝田明のコメントを撮る。仕事場のPCで、女性レポーターの映像を観る。このレポートは彼が自分でロケした素材なのか、なにか他の番組の映像なのかが不明瞭だ。前後関係の記憶がちょっと曖昧なのだが、村田がプロデユーサー(大迫一平)に白黒写真を見せて企画を進めようとする場面もある。村田は「大仏が歩いた」事件を取材して、自分のVを作る気があるのだと思う。しかし困ったことに、やる気があるようには見えない。
  • 村田は愛知県東海市聚楽園公園を訪れる。聚楽園駅から出てくる彼の様子からして、ここに来るのははじめてのようだ。この時の村田は小さなショルダーバッグを背負い、ビデオカメラをむき出しで手に持っている(なぜだ)。聚楽園公園を歩く。聚楽園大仏を見て、カメラを構える。そのカメラにはワイヤレスマイクの受信機がついており、しかしキャノン端子はカメラに刺さっておらずブラブラしている(なぜだ)。すぐにカメラを降ろし、RECするでもない。いったい、彼はわざわざ聚楽園に行って何をしておるのだろうか。三脚さえ持ってないのである。取材でもなんでもない。彼が何をどのように作っているどんな男なのかが全然判らないことは、オレには大きなストレスだった。演じた米山冬馬氏は、序盤にブサメンやんけと思ってたら後半どんどん愛嬌ある感じに見えてきて味わい深かったのだけど。
  • 次に気になったのが、ロケーションの貧しさだ。戦前の白黒パートで少しだけ映る室内は、現代の建売住宅にしか見えない。ここは昔ながらの日本家屋であってほしかった。屋外の風景も戦前には見えず、ただの現代の郊外だ。動きのある後半、地理は全然判らなくなる。村田の制作会社が関東のどのへんで、走る土手がどのへんなのか。住宅街や土手も厳しかったが、緑地公園の野っ原はさすがにショボすぎる。東京を歩く大仏の雄大なスケール感とは、イメージが分断されてしまっている。いかにも自主制作映画によくある「そのへんで撮った」感じに見えるのだ。あー、オレが3000円じゃなくて100万円とか支援できていたら、時間と金と手間をかけて探しあてた理想の場所で撮影できたかもしれなかったのに… オレが貧乏なせいで申し訳ない… などと、クラウドファンディング参加者ならではの妙な気分を味わった。だがラストシーンのロケーションは大当たりで、かなり挽回している。
  • 1934年の映画「大仏廻国」を再現した白黒映像はメチャクチャよくできており、目を見張る。また、この映画最大の見せ場、現代の東京を歩く大仏の映像も実に見応えがあった。CGの出来映えはたいへん素晴らしい。それだけに、誰でも気になる大仏の足元を徹底して見せないことには不満が残った。勿論、大仏の遠景に負けないクォリティで足元の映像を作るのは極めて難しいことと思われる。リアリティを失う危険が大きすぎるとの賢明な判断かもしれない。でも挑戦してほしかったな。
  • 後半、宝田明がテーマめいたことを台詞で言ってしまうのは実に気まずい。映画が描くべき現代社会の問題を、スター宝田明の喋りに外部委託してしまった印象だ。しかしそれ以上に、なぜだかよく判らぬうちに世界があのような有様になってしまった状況下で、村田が「数字(視聴率)」に触れたことに、オレ個人は心底がっかりしてしまった。それはモロに俗物の吐く生臭い言葉であって、大仏さまが廻国したことの結果が「数字」では、ホトケさまが泣きはしないか。村田という人間を、とうとう最後まで理解できなかったのが残念だ。たとえば村田が自殺を考えてるような男だとしたら、枝正監督の言葉も胸に響いて腑に落ちるかもしれぬ。しかし、そんな男ではないよなあ… 大仏さまは、歩いてるだけで美しい。理解を超えたものであってくれて構わない。しかし登場人物のことは、理解したかったと思うのだ。
  • 申し訳ないが、ジェット自転車は不要と思う。大仏以外に「普通でないもの」はいらないと思った。
  • 音楽は素晴らしかった。映像や展開と噛みあっていた。

いろいろ文句を並べてしまいましたが、この極めて特異な企画、無茶な挑戦が成功することを願っております。

映画映画ベスト10に参加

下記の企画に参加します。「映画についての映画」、わたくしのベスト10。

映画映画ベストテン - 男の魂に火をつけろ!

1.ミッドナイトクロス(1981年、米、ブライアン・デ・パルマ)

音響効果スタッフ

ミッドナイトクロス -HDリマスター版- [Blu-ray]

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2.ブギーナイツ(1997年、米、ポール・トーマス・アンダーソン)

ポルノ男優

ブギーナイツ [DVD]

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3.食人族(1980年、伊、ルッジェロ・デオダート)

探検隊が残したフィルムをドキュメンタリー映画に仕立てた。と言い張る

4.グッドモーニング・バビロン!(1987年、伊仏米、パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ)

D・W・グリフィスの時代

グッドモーニング・バビロン!   Blu-ray (2枚組)

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5.死亡遊戯(1978年、香米、ロバート・クローズ)

「ブルース・リーの死」そのものがネタ

死亡遊戯 [Blu-ray]

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6.カイロの紫のバラ(1985年、米、ウディ・アレン)

映画の登場人物が銀幕から出てきた

カイロの紫のバラ(テレビ吹替音声収録版) [DVD]

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7.アメリカの夜(1973年、仏、フランソワ・トリュフォー)

監督が監督役

映画に愛をこめて アメリカの夜 特別版 [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [DVD]

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8.アダプテーション(2002年、米、スパイク・ジョーンズ)

脚本を書こうとしてもついオナニーをしてしまう

アダプテーション DTSエディション [DVD]

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9.ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ(2016年、米、トッド・ストラウス=シュルソン)

若き日の母に映画の中で再会

ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ [DVD]

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10.マチネー/土曜の午後はキッスで始まる

(1993年、米、ジョー・ダンテ)
映画館でドキドキ

マチネー/土曜の午後はキッスで始まる [Blu-ray]

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番外.ハードコアの夜(1979、米、ポール・シュレイダー)

この映画は一度も観てないので集計に入れなくていいです。お固いおっさんが行方不明になった娘を探していたら、彼女が出演しているポルノ映画を発見。大ショックのおっさんはポルノ業界に潜入し娘を探す… というあらすじ。
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ビデオレンタル黎明期の中学生の頃、家の近くのビデオ屋の棚に並んでいたのだ。「信じたくない!」と頭を抱えているおっさんの写真が妙に面白くて、ビデオ屋に行くたびに必ずこの映画のVHSのパッケージを手にとって眺めていた。でも結局、一度も借りなかったんだよな。いまやオレ自身がおっさんになったんだけど、いまだに観ていない。このベスト10を考えていて思い出したので、そのうち観てみます。

今更ですが「もののけ姫」雑感

もののけ姫 [Blu-ray]

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「もののけ姫」はこうして生まれた。 [DVD]

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「もののけ姫」は1997年の劇場公開時に観てそのド迫力に陶酔しつつ、なんじゃこの難解で空中分解したお話はと驚き、大ヒットしたので更に驚いた。でもよー皆よく判ってなかっただろオレもだけど、と思っている。以後何度も観ているが、観るたびに面白く、新たな発見があり、今ではたいへんな傑作だと思っている。日本テレビの金曜ロードショーで先日放送されたものをまたまた観たので、20年来の感想を記しておこうと思う。コマ切れゆえ、映画の進行に沿った箇条書きで失礼。もうネタバレとか気にしなくていいよな。

  • ナウシカ冒頭の王蟲と同じ呼吸で石垣をブチ破って現れる祟り神。この映画は漫画版ナウシカを完結させた宮崎駿による映画版ナウシカの雪辱戦なので、似たキャラや似た場面が頻出するのだが、いちいちよりハードコアに仕立て直している。
  • 祟り神を止めるまでのアクションが最高に冴えてる。なにしろこの映画はアクションが冴えに冴えている。右腕をやられたアシタカが二射目を放つ直前の、祟り神=イノシシへぐんぐん近づく手書き作画のドリーショットが鳥肌ものの出来。この映画には3DCGの地面にテクスチャー貼ったドリーショットが数回出てくるが、そのどれよりも素晴らしい。
  • 宮崎駿の映画は絵コンテ作業の途中で追いかけるように作画を始めるので、作業的には順撮りに近い筈だ。ゆえに冒頭のアクションは、まだ疲弊してない元気なアニメーターによる渾身の作画を味わえるという寸法だ。そもそもケツを持つ作画監督が安藤雅司、高坂希太郎、近藤喜文というドリームチーム。
  • 物見ヤグラや山の上から見下ろすエミシの村は露骨に「七人の侍」の引用だ。「もののけ姫」は1997年公開。宮崎駿は93年に御殿場で黒澤明と対談しているので、パイセンその節はチーッスというサインなのだろう。
  • このエミシの村、アシタカ以外にはオッサンと老人と少女しか見当たらない。若い男はアシタカひとり。さぞやモテモテなんだろうよ。
  • 小刀で髷を切るアシタカ。公開当時オレが連想したのは、炊事場の包丁で髷を切って大相撲を廃業した力道山だった。断髪が力士としての引退を意味するように、ここでエミシのアシタカヒコは一度死んだと見做される。アシタカは呪われ、髷を落とし、村を追われ、見送りもなし。これが儀式的な「死」だからである。
  • 3万5000年前の原始時代を描いたジーン・アウルの小説「大地の子エイラ」*1の一場面では、ネアンデルタール人の氏族における「死の呪い」が描かれている。重大な禁忌を犯した者は、族長と呪い師から「死」を宣告される。殺しはしない、宣告するだけだ。しかしその瞬間から、すでに彼(彼女)は死んだという扱いになり、見えない霊として認識される。氏族はその者の死を信じこみ、心から悲しみ、嘆く。現実には生きていても、氏族(それは世界のすべてだ)から「存在しないもの」と見做され、無視される者が独力で生き延びられる環境は、原始時代にはほとんど存在しない。「死の呪い」は事実上の死刑として機能する。
  • また、トールキンの「指輪物語」における「死者の道」も連想される。アラソルンの息子アラゴルンは死ぬ覚悟で冥界を通り抜ける。なにしろ「死ぬ目に遭う」のは英雄になるための必要条件だ。
  • それなのになんだなんだ。村を去ろうとするアシタカに、美少女ちゃんが禁を破って駆け寄って目はハートマーク、「お仕置きは受けます!」って美少女に何をスケベな台詞言わせとんねん、まったく呆れたエロジジイである。しかしまあ或いは、これって現代の観客に向けた宮崎駿のサービスなのかもしれぬ。死の呪いとかピンとこない平和ボケのボクチャンでも、村にただひとりのモテモテイケメンがキャッキャウフフのハーレムアニメ的世界から放逐されてつれーわー、オレつれーわー寝てねーわー、これならまんざら理解できなくもない。意識低くてお恥ずかしい。
  • 田舎侍の略奪に出っ喰わし、弓を引いたところ右腕の祟りパワー炸裂で圧勝してしまうアシタカ。観客は俺ツエー、さすがですお兄様! と喜んでもいいのだけれど、実際はアシタカが徐々に人でなくなってゆく過程、怪物化のはじまりであって、不穏極まりない暴力描写だ。侍のひとりがアシタカを見て「鬼だ」って言うでしょう。オレが連想したのは、死ぬ思いでデーモンと合体した不動明だった。悪魔のちから身につけた、正義のヒーローデビルマン(アニメ版)。もののけ姫も「やるなーオヌシ」とか言ってくれる(漫画版)。
  • 市で砂金を見せたアシタカを尾行する追い剥ぎたち。走って追跡を撒くので荒事にはならないのだが、無法の末世といった雰囲気がいい。当たり前に悪意の蔓延る世界を舞台にしている。
  • 雨の峠での、山犬らの襲撃。遠距離を狙い次々と発砲する石火矢のひとつが、雨のためか不発に終わる描写に唸る。アッサリやってるけど、まーアニメ監督が10人いたら9人できない、見事な銃器描写だと思う。
  • 遠くを走る山犬らは実は陽動で、本命の美輪明宏が崖の上から奇襲して大暴れ。しかし女首領はすでにこれを予測しており冷静に撃退。短い戦闘シーンながら双方が手練の宿敵同士であることを十全に表現しており、見事な手際というほかない。
  • もののけ姫=サンを演じる石田ゆり子は正直言って物足りない。大枠はナウシカなんだから島本須美でええやんけと思う。エボシの田中裕子は、さらに物足りない。榊原良子しかいないだろう常識的に考えて…
  • タタラ場。後に祟り神となりエミシの村を襲ったイノシシを、いかに退治したかの武勇伝を楽しげに語る男たち。聞くアシタカはどんどん深刻な顔になる。黒澤明やキューブリックが得意とした対位法だ。宮崎駿はこれを音楽ではなく、男たちの野卑な笑い声や興が乗っての裸踊りを、アシタカの凄惨な内面と対比させる。ちょっと驚くほど高級なことをやっているのだ。実にうまい。
  • タタラ場の男たちはそれぞれに個性豊かだが不細工なオッサンばかりで、アシタカのようなイケメンは全然いない。島本須美もアシタカに「あらいい男」と言っていた。エミシの王子アシタカと底辺労働者では、育ちも違うから顔つきも違うのだ… と、言葉にすれば差別的だが宮崎駿は容赦なく絵で示す。これがリアリティあるんだ。
  • 白拍子、売られた女、癩病患者、たたら製鉄の従事者、天朝の狗。現代のエンターテインメント作品に登場させるには躊躇われがちなモチーフがこれでもかと投入されている。普通の時代劇なら主役を張る武士は、この映画では略奪しか能がないろくでもない連中だ。ある勢力の黒幕は天朝とされる。宮崎駿は天皇FUCKと声高らかにシャウトしているのだ。さすが共産党や。いや共産党より気合入ってるかもしれん。ちなみに高畑勲が「かぐや姫の物語」で描いた天皇はセクハラアゴ野郎だ。お前ら何十億もかけてる映画なのにマジでブレーキ壊れてんな… すげえわ…
  • とはいえ上の段落で書いたようなことは、97年に劇場で観た時には全然思い至らなかった。オレはもの知らぬ若者だった。今やもの知らぬ中年だ。「もののけ姫」は多くの深刻な現代的テーマをブチこんで、それらは解決不能の問題ばかりで、劇中では解決されず、現実でも解決されない。文句あんのかそういうもんだよオメーラそういう世界で生きるんだよと、勇気が出るような出ないような、苦いような渋いような基本的態度。なんだこれヘンテコな映画だなあ。「やろうとしていること」が他の一般的な娯楽映画と違いすぎてて、未だにびっくりするんだよな。
  • 「もののけ姫」は宮崎駿が勉強した教養を全ブッコミしたうえに持ち前の豊かな想像力を縦横にふるった超大作だ。現代を生きるスーファミ世代のわたくしが一見で理解できるわけがない。何度も観て理解を深めてこそ面白くなる類の映画だ。宮崎駿も教養をひけらかす照れからか、知識がないと難しいモチーフでもろくに説明しない。説明は品格を損ねる、これぐらいわかれよと仰る。わからん。この「説明しない」悪癖が、「もののけ姫」以降の宮崎作品を難解なものにしている。
  • サンのタタラ場襲撃からアシタカのデビルマン覚醒と撤退は、またまた痺れるアクションの釣瓶打ちだ。緩急の間がいいんだよな、息を呑む。それからこの映画、セリフがとてもいい。いいセリフ率が高い。「そなたの中には夜叉がいる」なんてカッチョイイ台詞を、いちばんヤバい祟り神をしょった半分怪物のアシタカが言うから効くんだよな。
  • アシタカと美輪明宏の対話。ここもセリフがいい。「私はここで朽ちてゆく体と森の悲鳴に耳を傾けながら、あの女を待っている。あいつの頭を噛み砕く瞬間を夢見ながら」 美しい。
  • 山犬たちと別れ、雨と霧の中を鹿に乗って進むアシタカ。と、あっという間に雨がやみ晴れ間が顔を覗かせる。と思えばすぐに雨になり、霧の中だ。遠く爆音を聞き、サンを思う。再び視界が開けると、戦場になったタタラ場が見える。不安定な天候をセリフ無しでたっぷり1分強(それでもたった1分強)を使って見せるこの場面、劇場での初見時からオレ大好きなんだよなあ。こういうのがあるから豊かな映画なんだと思うのだ。「もののけ姫」を尺に収めるために宮崎駿は苦しんだと聞く。この場面、よくぞ切らずに残してくれたものだと思う。
  • 以後のアシタカの右往左往のエンドレスアクションは眼福で、ひたすら駆けずり回るアシタカさんはお疲れ様なことである。アシタカが乗る鹿が四騎の追手から逃げる途中、立ち止まってその場でぐるりと回ってどうどう、なんて描くのクソめんどくさそうな芝居がゴージャスすぎて凄い。追手の放った矢で頭巾が外れてイケメン丸出しになる設計もうまい。アシタカは超人的能力で追手を仕留めるのだが、もうこのへんになると講談の名人が乗りに乗ってアドリブかましてるみたいで呆気にとられるばかりだ。焼かれる死体の山は「炎628」からの引用だろうか。独ソ戦マニアだもんな。
  • 神殺しのあと、タタラ場から見て山の稜線からヌッと出てくる巨神兵。本多猪四郎の「ゴジラ」です。タタラ場を襲う巨神兵のドロドロは「マックイーンの絶対の危機」や「ブロブ/宇宙からの不明物体」みたいに見えるが、実のところあのドロドロは宮崎駿の内面から出てきたものだろう。以降の作品でも、宮崎駿は隙を見てはすぐドロドロするようになる。ぼくはドロドロは好きじゃない。
  • 大いに不満なのは終わり方だ。もうあからさまに「あー疲れた、はい、シメますよ」という感じで久石譲の音楽は露骨に押しつけがましくなり、ザコの牛飼いや天皇の狗の坊主が「シメ用のコメント」を発し、クシャナはいきなりいい人っぽく取り繕って(嘘に決まってんだろあんなもん)、挙句に小さい妖精のラストカット、なんじゃこれ「いつものやつ」じゃねえか。この投げやりな「ほれ一丁あがり」感が耐え難い。もう明らかに宮崎駿が力尽きてんだよな。ハードコアが急にお子様ランチになるんだ。
  • エンドクレジットで流れる主題歌はとてもいいんだけど、直前の投げやりなシメかたのせいで弱く感じる。
  • あ、それからタイトルもひどいと思う。もののけ姫は主人公ではない。

*1:「エイラ」6部作の感想:http://pencroft.hatenablog.com/entry/20140517/p1

本当の話をしよう 「若おかみは小学生!」

立川で映画版「若おかみは小学生!」を観てきた。これは原作は児童文学のヒットシリーズで、20巻も刊行されているらしい。オレは知らなかった。このアニメの存在を知ったのは、あの児童文学がテレビアニメ化&映画化されますよ、というネットニュースだった。公式サイトを見て、映画版の監督が高坂希太郎であると知った。中編「茄子 アンダルシアの夏」などの監督で、自身も自転車乗りで、何よりも凄腕のアニメーターである。フーンと思いながら公式サイトの監督コメントを読んでみて、そこではじめてギョギョギョとなったのだ。

この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。
(監督コメント抜粋)

「おお!ことばの意味はわからんがとにかくすごい自信だ!」ではないが、監督のこの異常な本気、要するに狂気に、強く惹かれたのであった。

テレビ版「若おかみは小学生!」も観ているが、充分に良質なアニメである。そして予告などで観る映画版の映像はグッと密度が濃く、よく動く緻密で精妙な作画が印象的だった。オレはここに「本物の匂い」を感じた。

オレが映画を観る前から「本物の匂い」を感じることは稀なんだけど、今まではだいたい当たってきたと思っている。まあ「これオレ好きそう!」、観てみたら「やっぱり好き!」ってだけのことなので、大した話ではないのだけど。以下感想、少々ネタバレあり。

女児向けアニメゆえなのか尺が短く、もう10分あげたかった。鬼気迫る偏執狂的な美術と作画が、おっこや幽霊たちに実写以上の身体性と実在感を与えている。春の屋に泊まってみたい、そう思わせるだけでも驚異的なアニメだと思う。 (★4)

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はてなダイアリーからはてなブログへ

はてなダイアリーが終了するそうなので、石もて追われて引っ越してきました。内容はダイアリーのままなので、リンクなどでおかしな部分もあるのかもしれませんが、直すのもキリがないのでもう気にしないことにしました。今後ともよろしく。

フィクションにおける「思う壺」問題について

小説マンガ映画にアニメ、テレビドラマはほとんど観ないが、わたくしが摂取するフィクションのおよそすべてにおいて気にしているというか、考えてしまうというか、どうにも気になってしまうある基準が自分の中にある。それはここ十数年でだんだんハッキリしてきたものだ。この折にそのことを書こうと思うのだけど、今これを読んでいるそこのあなた、あなたはそんな知らんおっさんのどうでもいい内心など興味ないと思われることでしょう。それも当然だ、読まなきゃいい。でも書くのだ。

簡単に言えば、フィクションの中で(多くの場合)肩入れすべき主人公格の人物が、他者の「思う壺」になっているさまを見ると気になる、イライラする、時に作品自体を嫌いになる、まれに作者まで嫌いになる、ということがオレにはよくあるのだ。「思う壺」を「良しとする」作品を、好きになれないのだ。

記憶の中で最初にそう思ったのは1987年、中学生の頃に観た映画「アンタッチャブル」だったと思う。みんな大好きオレも大好きブライアン・デ・パルマ監督の、超カッコイイ映画である。しかし当時のオレには少々腑に落ちない違和感があった。もちろん中学生のわたくしなんてもう完全にクルクルパーだったからその理由はよく判らなかったんだけど、今なら判る。主人公エリオット・ネスの生きかたが気に入らなかったのだ。

ご存知だろうが「アンタッチャブル」は禁酒法時代、密造酒で儲けていたアル・カポネをとっ捕まえるお話だ。しかしよく考えなくても、禁酒法なんて悪法も悪法である。ネスは財務省の役人で、禁酒法がクソであると知りつつ「これは国の法律だ」と言いながら密造人や密売人をしょっぴこうとする。映画の結末、禁酒法が廃止になると記者に聞いたネスは「一杯やるよ」と答える。こいつは禁酒法をどう考えているのだろう、この男が拠って立つ正義はいったいどこにあるのかと中学生のオレはうっすら思い、しかしうまく言葉にできなかった。

ネスの中には信じる正義もなければ、自分だけの動機も、やむにやまれぬ衝動も在りはしないのだ。自分の生きかたを法律に丸投げし、人間の精神を放棄した犬なのだ。考えることを辞めた豚なのだ。こんなロボット小役人、まったくもって国家権力の「思う壺」なのである。禁酒法があるから酒はダメ。禁酒法がないなら飲みまひょか。コンニャク、コウモリ野郎、手のひら返し、権力の奴隷。こんな野郎は許せねえ気に入らねえ、ブン殴ってやる! というようなことをオレは映画を観た後、数年がかりでジワジワと理解した。一方、悪役のアル・カポネは誰の「思う壺」にもならない。徹底して自分のルールで生きている。この映画の真のヒーローは断然アル・カポネだ。オペラに感動して涙を流す、感受性豊かで真心あふれる男なのだ。気に喰わんやつはバットで撲殺、あしたはホームランや!

ちなみに今のオレはこれほど極端な意見ではない。劇中にはネスが法を踏み越える場面(フランク・ニティ殺害)もあるし、それほど一面的な映画だとは思ってない。ただ妙に印象に残る不思議な作品、いろいろヘンな映画だったなーと思っている。まあそれはそれとして、主人公が他者の「思う壺」になっているならば、もう物語そのものが信用ならねえんだ。ついていく気を失くしちまうんだ。そんな気分は年々強くなってきて、自分の中に一定の割合を占めるようになった。

近年、特に「思う壺」すぎてこりゃあ全然ダメだと思ったのがアニメーション映画「心が叫びたがってるんだ。」である。この映画に登場する青少年はどいつもこいつも大人の「思う壺」で、オレなんか自宅でのDVD鑑賞だったこともあり思わず「思う壺やないかーい」と声に出してしまったほどだ。連中、いらんことをやらされていることに疑問を持たなさすぎなのだ。学校や教員からすりゃあ、極めて扱いやすいガキどもであろう。青春映画の形をとっているものの、ここで描かれているのは大人の「思う壺」の範囲を決してはみ出さない「青春」なのだ。気に入らねえ、まったく気に入らねえ。ペッペッ。

少年少女を扱うことの多い媒体であるマンガやアニメでは、学校・部活・教員の「思う壺」になっている若者を頻繁に見かけることになる。「思う壺」になっていること自体に気づかず、青春してると思い込んでて、まあそれも君たちなりの青春なんだろうけど、ぼかー願い下げだなーと思うことが多い。中でも部活動なんて酷い。オレなんかそもそもなぜ学校教育に部活動というものが存在するのか、意味が判らない。納得できる説明を聞いたことがない。

京都アニメーションの超絶美麗アニメ「響け!ユーフォニアム」第1期第2話には、年度アタマに吹奏楽部にやってきた陰湿なメガネ顧問が右も左も判らぬ生徒たちを誘導してまんまとカタに嵌める場面がある。生徒らが顧問に感じた戸惑いや反感は話数が進むにつれてみるみるなかったことになり、生徒たちは顧問の言うことを盲目的に信じこみ、ひたすらコンクールを勝ち抜くことが唯一絶対の価値なのである、それしかないのであるという「常識」が共有されてゆく。なるほどこれが顧問センスというやつか。実に気に入らねえ、いたく気に入らねえ。しかしこれが部活動の本質に触れた描写であることは明白だ。

人間をブリンカー(遮眼革)をつけた競走馬扱いする斯様ななりゆきは、なにもこのアニメだけのことではなくて、これは「教育」という営みがどうしても持たざるを得ないダークサイド、コインの裏側なのだと言うこともできる。中でも存在意義すらよく判らぬこの部活動という土人の宗教は、このダークサイドを煮詰めた地獄に陥りやすい。少女マンガの「青空エール」(青空エール コミック 1-19巻セット (マーガレットコミックス))とかねえ、ぼくはホントどうかと思ったな。余計なお世話ながら、君たちもう少しこの世の仕組みを疑ったらどうかねと言いたくなった。

一方で、たとえば梶原一騎のマンガ「巨人の星」はいまだ世間的には根性至上主義のアナクロニズム、理不尽極まりないスパルタ教育礼賛マンガだと思われている節がある。これは実に浅はかな解釈と言わざるを得ない。「巨人の星」とは日本の敗戦をモデルとして、失敗した教育の犠牲となった若人の魂の彷徨を描いた悲劇なのである。とりわけ凄まじいと感じたのが星飛雄馬アームストロング・オズマの会話だ。2体の野球ロボットがいかに人生のすべてを野球だけに捧げてしまったか、どれほど他者の「思う壺」になって生きてしまったかを確認しあう、地獄の底から響いてくるような鬼気迫るやりとりだった。


このあと飛雄馬は歪んだ教育のために失われた自分の青春を、日高美奈との出会いと別れを経験することでついに獲得するのだ。それにしてもこのような視点を内包するスポーツマンガを、梶原一騎はなんと1960年代後半に発表していたのだから異常な先進性だ。これほど誤解され、侮られている作家も珍しい。今すぐノーベル賞を授与すべきだ。

黒澤明の映画「姿三四郎」では、教育の理想が描かれる。師の矢野正五郎に戒められた三四郎が池に飛び込み、杭にしがみつく。池に浸かって夜を明かした三四郎は、夜明けに開いた蓮の花を目撃する。無垢の美しさに心を奪われた三四郎が「先生!」と叫ぶ。即座に座敷の障子がバーン! と開き、矢野正五郎や兄弟子、和尚が縁側に飛び出してくる。

ポイントはふたつあり、まず蓮の花は、師が用意したものではなく三四郎が勝手に見つけたものだということ。矢野正五郎は、なんら恣意的な誘導をしていない。池に飛び込んだのも三四郎なら、蓮の花を見出したのも三四郎だ。ゆえにその感動は自分だけのものであり、終生忘れることがない。次に、三四郎の叫びに応じて障子が即座に開いたという事実。要するに矢野正五郎は弟子の身を案じ、明け方まで眠らずにずっと起きていたのだ。安易な手助けはせず、弟子が自分で悟るのを辛抱強く待っていた。なんという愛情だろうか。オレは驚愕した。三四郎にとって矢野正五郎は、生涯に一度しか出会えない師だったのだ。この師弟の美しさを、しかしこの映画は言葉や台詞では一言も説明せず、ただ映像で見せるのみ。「教育」も描きようによって、これほど美しいものになりうる。それは、ここに他者の「思う壺」の入り込む余地がないからだ。

他者の「思う壺」に嵌まらない自由な若者を描く今どきのアニメも、もちろんある。今年のはじめに放送された「宇宙よりも遠い場所」では、主役の4人の女子高生が、くだらない世間や学校の思惑から大きくはみ出る旅に出る。これ見よがしに反抗するでもなく、ただ目線の高さ、志のスケールの差で鮮やかに飛び越えてみせるのがいかにも現代的だった。ハナから学校なんぞに何も期待していないのが清々しい。わたくしの如きおっさんはすぐ青春の殺人者と化してテロリズム敢行、バットで撲殺しか思いつかないもんだから、「宇宙よりも遠い場所」には本当に心洗われたものでしたよ。

アニメ「BANANA FISH」とわたくし

「BANANA FISH」というマンガ、世評は高く傑作とされており、大ファンだと公言する友人もいて、フーンそうなんだ、いっぺん読んでみようかなと思って実際に読みかけて、数十頁くらい読んだら興味をなくして読むのをやめる、ということがわたくし過去に3回くらいあった。好きも嫌いもないけれど、なんとなく相性が悪い。なぜだかどうも興味が持てない。そういう作品も、たまには存在するものだ。ちなみに同じ作者の「海街dairy」は、まだ完結してないけど好きだ。とてもいいマンガだと思う。実写映画版はあまり気に喰わない。(ついこないだ完結したらしい。知らなかった)

BANANA FISH Blu-ray Disc BOX 1(完全生産限定版)

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さてそのような「BANANA FISH」がフジテレビノイタミナ枠でアニメ化、制作はMAPPA。上記のような私的な因縁があり、しかし傑作と世評の固まっている作品、この機会に観てみようと思った。設定を現代にすることに対する原作ファンの悲鳴と怒号はweb上で観測していたが、オレはこのマンガに思い入れがあるわけじゃなし、なにしろそもそも読んでないし、お話を把握するくらいはできるだろうと踏んでいたのだ。で、第1話を観たわたくしのツイートがこれ。




まーよくある拳銃ヘッポコ描写への、まーよくあるツッコミです。アニメ「BANANA FISH」の監督はかつて京都アニメーションでイケメン水芸アニメとか作ってた女性で、あんまり銃とか興味なさそうな感じだ。このアニメを観た人なら誰でも呟きそうなこの軽口がなぜかどんどんリツイートされ、その数が100や200を超えたところでわたくしもビビってたじろいだ。言うてもまだこのアニメは放送が始まったばかり、この時期に悪い評判をたてるのは本意ではない。不出来なクソアニメなら、他に幾らでもある(悲しいかなホントに幾らでもある)。これはむしろ、「出来がいいアニメの中に」このような描写が含まれていたために目立った違和感だ。

上記のツイート、上2つは一昨日深夜と今朝のものだが、今日の夜になってもまだRT通知音がヘホーン、ヘホーンと鳴りやまない(TwitterクライアントのJanetterをそのように設定していたので)。こうなるとあとはもう自動的に増えていくだけ、もともとはガンマニアでもないオレが発したしょうもないツイートが、いまやナウシカ原作版の粘菌のようにweb上に拡散してしまった。この群体レギオンは、制作スタッフの方々の目にも入ることだろう。申し訳ない気持ちだ。とはいえ、この描写をきっかけにまたしてもオレは「BANANA FISH」に冷め、REC予約を削除する程度には興味をなくしてしまった。そういうこともあります。そういうこともある。

追記

Twitterでもブクマでも「アイソセレススタンス」について何度か指摘されているが、どうぞアニメ観てくださいとしか言いようがない。この場面が近接戦ではなく動く目標への遠距離射撃だということと、目標の車には金髪の弟分みたいな少年が乗っており(あと巻き込まれた日本人も)誤射が許されぬ状況であるということ。そんな難しい射撃を拳銃でやっちゃう肚の据わった凄腕兄ちゃん、という場面なんだから両目照準は演出としてどうなんかなーと。こいつ弟分の命はどうでもええんかなと思われかねない描写だと思う。射撃術が間違ってると言ってるんじゃなくて、演出が間違ってるんじゃないの、という話。よろしくご理解を。